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えるだま・・・世界の国から

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2006年 11月 27日

ペルシャの秘宝(1)

ペルシャの秘宝

第一章

 イランへの長期派遣の話を聞いたとき、川島直紀はさすがに心の動揺を隠せなかった。35歳に達した自分にもそろそろ海外派遣の話が回ってくるだろうと思ってはいたのだが、それがよりにもよってイランだとは川島にはショックであった。
 彼にとってのイラン人というのは、10年くらい前に上野で偽造テレホンカードを売っていた不法滞在のイラン人グループとか、歴史ものの映画に登場するペルシャ商人というイメージしかなかった。イランがイスラム教の国ということは知ってはいても、そもそもイスラム教徒と接触する機会すら持ったことはないのだ。
 川島には自分自身の動揺よりも両親にショックを与えないようにしないといけないというのが先決であった。彼は急いでイランについて調べ、両親に心配を掛けないような話をしなければいけないと思った。ほとんどの日本人にとってはイラクとイランとの区別すら難しいのが実態である。

「どうしてよりによってイランなんだろうねぇ。ヨーロッパにだって国はいっぱいあるだろうに。」
母親に言われるまでもなく、直紀自身がそう思っていたのだった。退職して家にいる父親は話を聞いて表情を曇らせただけだった。
「イランは自動車を生産しているんだ。砂漠ばかりの国じゃないらしいよ。」
「戦争とかテロとか大丈夫だろうかねぇ。」
「悪い噂はあるようだけど、事件は起きてないよ。」

 川島直紀が赴任のための準備を始めると、机の引き出しの中に青い石の小箱を発見した。それはもう30年も前になるが伯父の吉田画伯からもらったものなのだ。10cm程度の小さな小箱だが宝石でも入れるものなのだろう。蓋の裏側にアラビア文字のようなものが刻まれているが、それを読める人はいないし、吉田画伯もそれについては何も語らず今はもうこの世の人ではない。彼はイランに行けば読めるかも知れないと思い、それをショルダーバッグに入れた。

 直紀は小学校に入る前、吉田画伯の別荘に少しの間滞在したことがあった。吉田画伯は病気の静養だったのか、千葉県富津市にある上総湊駅から歩いて20分もかかる場所だが、鉄道のトンネルの近くに別荘を持っていた。その別荘に行くのには鉄道の線路の橋を歩いて渡らなければならなかったので、よく覚えているのだ。直紀は別荘では何もすることがなかったので、一日中与えられた画材で絵を描いていたのを覚えている。吉田画伯は油絵の画家だったようだが、細かい模様と美しい色彩感覚に満ちた作品だったことが直紀の記憶に残っている。

 直紀は吉田画伯のことについて両親に聞いてみたいと思った。早速母親に聞くと、
「親戚の吉田さん、あの絵描きの吉田さんのことだけど。」
「ああ、亡くなった伯父さんね。」
「そう、伯父さんは外国に行っていたことがあったんじゃない?」
「そうね、そう言われれば、生前はよく外国に行っていたらしいね。」
「よくは知らないの?」
「お土産なんてもらったこともないし、よく分からないね。」
「今度、吉田の伯母さんに聞いてみてくれない?」
「じゃあ、後で電話してみようかね、久しぶりだしね。」

 長期の赴任となると日本から持参したいものはたくさんある。直紀は仕事に必要な文献などは別便で役所から送ったが、身の回りのものそして食物もできるだけたくさん詰め込みたいのだ。イランで日本食なんて期待する方が無理と言うものだろう。直紀の荷物は結局大きなサイズのスーツケース2個になった。一つが40kgもあるだろうか。

 夕食が済むと、直紀の母親が吉田の伯母さんに電話を掛けた。母親は一通り話をすると直紀に受話器を渡した。
「伯母さん、ご無沙汰しております。」
「イランに行くんだって、大変だねぇ。」
「はい。」
「うちのと同じ国に行くなんて、これは何かの縁なのかねぇ。」
「え?伯父さんはイランに行ったことがあるのですか?」
「2-3回は行っていたと思うけど、ずい分影響を受けたと言ってたね。」
「へぇ、そんなに行っていたんですか?」
「なんでもインスピレーションが湧くとか言ってね。」
「そういう国なんですか、イランっていうのは。」
「私には分からないけど、ずい分気に入っていたようだったね。」
「伯母さんは、伯父さんが私にくれた青い小さな箱のことを覚えていますか?」
「えっと、瑠璃色のかな、イラン人にもらったってやつでしょ?それしか知らないけどね。」
「へぇ、あれは瑠璃色って言うのですか・・・」
「そう、宝石の一種といえるかな。」
「うわっ、宝石だったんですか、知らなかった。」
「今じゃ、それほどの価値はないと思いますよ。昔は宝石だったと言うべきかな。」
「それにしてもすごいものをいただいていたんですね。」
「直紀ちゃんのことが可愛かったのでしょ、よく絵を描きに来てたものね。」
「はい、もう30年も前のことです。」
「そう、もう30年も経つのね・・・」

 直紀は瑠璃色の小箱に書かれている文字がペルシャ語らしいということが分かった。彼にはまだ見たこともないイランという国だが、伯父の吉田画伯が興味を持ったということから彼にはイランについて新たな興味が湧いてきた。
 同じアジアという地域にありながら、日本とイランとはアジアの両端に位置する国同士である。イランからみれば日本よりもヨーロッパの方がはるかに近い。日本から直行便で飛んでも9時間は掛かるという。
 直紀は両親に見送られて、成田空港を飛び立った。イラン航空の飛行機は北京を経由してテヘランの空港に向かうのだった。イラン航空の飛行機はB747だが、かなり古い形式のものと思われた。機内ではキャビアがサービスされたが、アルコール類は一切サービスされないようだった。飛行機が離陸した時から、直紀は既にイランに入ったような気分がした。

 飛行機がテヘランのメヘラバッド空港に着いたのは、もう夜中の11時であった。機内では気付かなかったが、いつの間にか女性たちが黒いスカーフを被っていた。川島直紀にはこれほどのイラン人女性が同じ飛行機に乗っていたなんてまったく気が付かなかったのである。国際空港とは思えないような薄暗くて小さい飛行場の建物を歩くと、パスポート・コントロールの長い列についた。どこが列なのか分からないような雑踏の中、直紀は仕方なく適当に並んでいた。すると制服を着たイラン人が直紀を一見して外国人だと認めたのだろうか、別な列に案内してくれた。そこは外交官用と表示されていたので、直紀は普通の列のところに並んでいたのだが、空いていたせいか外交官用の窓口に外国人を案内しているようであった。
 直紀が荷物を全部引き取り飛行場の出口に向かった時はもう12時を過ぎていた。大荷物のせいか税関の係員にスーツケースを開けされられたのには少し不愉快な気がしていた。「イランでは私の人相が悪いということなのだろうか・・・」
 直紀がスーツケースをカートに乗せて出口から出ようとすると、そこは黒山の人だかりだった。日本から帰国するイラン人の出迎えなのだろう。花を持っている人、ハンカチで涙を拭いている人、まるで映画スターでも出迎えるような騒ぎであった。直紀はそれをやっとのことですり抜けると、幸いにもその雑踏の中であるにもかかわらず出迎えの日本人をみつけることができた。

 飛行場からテヘランの市街地に向いながら外をみると、なんとなく古ぼけたコンクリートの建物が多く感じられた。夜でよくは見えなかったが、全体に薄茶色といった感じである。片側6車線もあるような広い道路だが、深夜のせいで走っている車は少なかった。直紀には中近東に来たという感じがいよいよ実感を伴ってきたのである。
 ホテルはテヘラン市の中心部にあると直紀は聞いていたのだが、車が進んでいる道には枯れた樹木が並木になっているものの道路幅は狭く、日本の田舎道のように見えた。迎えに来てくれた日本人に聞くと、この道がメインストリートのバリアスル・ストリートだと言う。直紀はこれが一千万の人口を抱えるイランの首都テヘランなのかと情けないような気分になってしまった。
 車はようやく路地に入り止った。案内されたところは長期滞在者用のホテルで、いわゆる5星ホテルとは違っていた。直紀はチェックインを済ませ、明日の迎えの説明を聞くと迎えに来てくれた日本人と別れた。このエラム・ホテルは長期滞在者用というだけあって、部屋の大きさは十分であった。ダイニング・キッチン、書斎のついたリビング、ベッドルームが二つある。独身で単身赴任の直紀には申し分のない大きさである。必要な食器はすべて備え付けられているし、毎朝、パンとバター、それに卵と牛乳が届けられるという。
 テヘランは雪が降るという。直紀が到着したのは2月であるが、これからも雪が降る可能性があるようだった。部屋にはスチームによる暖房があり、直紀が気に入ったことに書斎の近くには暖炉があるのだった。彼は生まれてから暖炉など使った経験はなかった。しかしこの暖炉に置いてある見た目木材のようなものは焼き物で、実際にはガスを燃やすのであった。

 翌朝直紀はキッチンで朝食を済ましてロビーで迎えを待った。直紀でなくとも最初は案内がなければ何もできないのはしょうがないことだろう。
 車に乗ると直紀に最初の驚きが待っていた。バリアスル・ストリートの交通量は多いが、4車線のところを7車線になって車が走っているのだ。いや、場所によっては8列になっているようである。しかもその走り方といったら、もう目茶苦茶である。直紀の地元の千葉県も交通マナーの悪いことでは有名だが、まったく比較にならないマナーである。接触事故が起きないことの方が不思議なくらいなのだ。直紀の乗っている車も他の車に負けないような運転をしている。
 混雑した道路でUターンをする車もいれば、直進車がいるのに目の前を横切っていく車もある。どうやら先に行動を起こした方に優先権があるようだし、あるいはそもそも優先権というものがないようにも思われる。直紀の車の前に割り込んでくる車もしょっちゅうである。日本では運転手の怒鳴り声が聞こえそうな運転マナーばかりであった。
 さらに直紀を驚かせたことは、そういう道路を平然と歩いて横断する人々がいることだった。彼にはこれはできそうもない芸当にみえた。その芸当を冷静に見ているとそういう歩行者に腹を立てているような運転手が誰一人いないのだ。歩行者は優先らしいと思われたが、それにしても車は直ぐに止まれないのだから何とも無謀な歩行者の行為に見えて仕方がなかった。年寄りも見かけたが、この人たちはやはり若い人と同じという訳にはいかないようで、おっかなびっくりで道路を横断していた。それでもちゃんと横断はしているのである。
 やがて車は広い道路に出た。高速道路に見えるが料金所がないところから有料道路ではないようだ。反対車線は大変な混雑をしている。直紀の進んでいるのは市の中心地から外に向かっているのだろう。着いた場所は公園の入り口のようで、パルディサンと呼ばれている場所であった。その公園の中の道路をさらに進むと、白い大きな建築物が見えてきた。そこが川島直紀の勤務するオフィスになるところである。テヘランのやや西側に位置している。直紀は公園の中にあるオフィスというのも悪くないなと思った。
 車を降りると市街地が眼下に見える。全体を薄い茶色の空気が覆っていた。これが有名なテヘランの大気汚染なのかと到着早々に確認することができたのだった。直紀の前任者がテヘランの大気汚染について技術移転を図り、それが成功したことから、今度はイラン全土を対象にということで直紀に仕事が回ってきたのであった。ここパルディサンのオフィスはテヘランだけでなくイラン全土を監督する立場にある組織なのである。
 挨拶など一通り必要なことを済ませると、直紀に一番重要なのはアシスタント探しであった。ペルシャ語のできない直紀であるから、これが最優先のことである。職場で会った何人かにアシスタント探しを頼んだ。二番目は足の確保である。この国では運転手付のレンタカーを使うこともできるし、車付きの運転手を雇うこともできるという。道路で見た限りでは、テヘランにはあまり日本車は走っていないようだった。プジョー405というのがその中ではまともな車に見えた。安い給料でプジョーを持っている運転手を雇えればいいと思う直紀であった。
 直紀が与えられたオフィスにいると、二人のイラン人が話しに来たが、驚いたことに二人ともイランの観光地の案内ばかりするのだった。外国人の直紀にはまずはイランという国を理解してもらいたいということなのだろうと思った。オフィスは十分な広さを持ち、アシスタントと二人で執務するに適した大きさであった。ただしイランなので女性のアシスタントと一緒ということだと、執務室の部屋のドアは常時開けておくということがマナーのようである。

by elderman | 2006-11-27 18:50


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