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えるだま・・・世界の国から

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2006年 01月 03日

古い記憶(2)3-4歳

3-4歳の記憶というのも断片しか残っていないようです。両親から思い出話を聞いて当時の境遇の理由が分かるというものですが、記憶という点でははなはだ心もとないもののようです。

私が3-4歳の頃、千葉県の下総から上総に移り住んだことがあります。今回はそのときの記憶の断片です。

(沢蟹)
どういう訳か、父親の親戚の家に仮住まいしていたようです。私の記憶にあるのは家の中まで入ってくる沢蟹です。川の近くのせいでしょう、じめじめとした湿気の多い場所でした。その家では駄菓子屋みたいなことをやっていたようです。田楽や田螺の煮た物などを売っていました。

(駅の裏の家)
やがて私たちは駅の裏側の家に引っ越しました。たまに通る汽車(蒸気機関車です)の音がやかましかったのを覚えています。もっとも直ぐに慣れて気にならなくなったということも覚えています。二軒家が並んでいたようで、隣の家には犬がいました。「マル」という名前で時々直ぐ近くの海岸に一緒に遊びに行ったものです。大きな犬でしたが、怖いという印象は残っていません。

当時の海岸はとても綺麗な砂浜で、ピンク色の桜貝を拾ったりしたものです。今では浅蜊や蛤が棲むようになってしまいましたから、富栄養化がどんどん進んでしまいました。当時は浅蜊や蛤は汚い海岸に棲むと言われていました。その後東京湾の水質汚濁が進み、浅蜊や蛤まで棲めなくなってしまうというのは怖い話です。

(ブンジョーチ)
その借家の近くに「ブンジョーチ」と呼ばれるところに父親の長姉夫妻が住んでいました。「ブンジョーチ」とは「分譲地」でしょうけど、当時どうしてそんな一過性の名前で呼んでいたのか理解に苦しみます。「別荘」とか呼べば、思い出しても格好がいいのですけどね。

そのブンジョーチにはよく歩いて行ったようです。当時私の父親は単身赴任だったようで、一緒には住んでいませんでした。それで母親が寂しさを紛らわすために親戚を訪ねて行ったのでしょう。ブンジョーチに住んでいるご主人は日本画の画家でした。結核の治療なのでしょう、転地療養をしていたのだと思います。私はその伯父さんのところで終日絵を描いて過ごしていました。

歩いて行くのですが、最短距離を選ぶとそうなるのか、鉄道の線路つたいに歩いて行ったのを思い出します。記憶に鮮明に残っているのは、途中の鉄橋です。そこを歩いて渡らないといけないのですが、渡っている途中で汽車が来るんじゃないかととても怖かったです。せいぜい20m程度の長さの鉄橋だと思いますが、当時3-4歳の幼児ですから無理もないことです。

(ひらがな)
1954年(昭和29年)当時はラジオもテレビもない暮らしです。私は積み木のような四角い板切れでよく遊んでいました。その板切れには絵が描いてあって、ひらがなが書かれていました。毎日それで遊んでいたせいでしょう、小学校に入る前にひらがなを全部覚えてしまいました。その板切れに描かれていた、水色の「そら」や紫色の「なす」の絵は今でも思い出せます。

by elderman | 2006-01-03 12:55


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