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えるだま・・・世界の国から

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2005年 10月 04日

日本人の特殊性(32)おもいやり(1)

日本人の代表的な美徳のひとつに「おもいやり」を挙げることは多いですね。意見百出、議論を呼ぶでしょうが、あえて日本人の特徴を分析する挑戦をしてみたいと思います。

最初に私の言いたいことを明確にしましょう。「日本人は仲間意識も強いですが、互いに監視し合う習慣が身についてしまっている。」ということです。反論もあるでしょう。

例えば、自由に職場の執務空間を選べるとしたらどうでしょう?日本では部長クラス以上でないと秘書付きの個室は提供されないのが普通ですね。ところが一般にこれを望むかと言うとそうでもなく、希望を聞くと日本人の多くは、20人でも50人でも、机を並べた執務環境を選びます。ヨーロッパ人の目からは信じられないことのようで、仕事に集中もできないし、電話も不自由、プライバシーもない、とても仕事できる環境ではないと言うでしょう。

なぜ、日本人はそのように仕事をやり難い環境をあえて選択するのでしょうか?仲間意識もあるでしょうが、他人が何をしているか知りたいからだと思います。そうすると同時に自分も見られていることを強く意識することになりますね。この形態は管理職からすると非常に部下の管理がやりやすいものだと思われます。自分で直接みなくても、部下が自ら監視し合ってくれている訳ですからね。しかし、こういう環境は絶対に窮屈ですから、5時過ぎに飲み屋に行って憂さ晴らしをするということになる訳です。

ヨーロッパ流では、その窮屈さがないですから、「5時から男」も存在しないことになります。そして、飽くまでも成果重視の個人プレーになって行きます。このやり方では、ミーティングによる相互の情報交換は非常に大事であることは言うまでもないでしょう。

前回は「おもいやり」というタイトルから離れているような印象を与えたかも知れませんが、「おもいやり」という美徳が生まれる背景から分析しないと始まらないと考えたからです。今回も、その「おもいやり」に近づくよりも、むしろ前回の「日本人は仲間意識も強いですが、互いに監視し合う習慣が身についてしまっている。」という理由の方を考えてみたいと思います。

前回書いたように、日本人はなぜ窮屈な仕事環境を自ら選択するのでしょうか?「他人が何をしているか知りたい」という理由で十分なのでしょうか?「旅は道連れ、世は情け」、「みんなで渡れば怖くない」、この辺りが日本人の感性を言い表しているようにも思われます。

南米では、まったく反対のことを聞きました。「気の合わない人と旅するより、一人がいい。」 どうも西欧人と日本人とは正反対の感性があるようです。日本人には、独立心が薄いのでしょうか?そうかも知れませんが、逆にチームワークという点において日本人は比類ない能力を持つと考えられます。

戦争を肯定する気はありませんが、日露戦争、太平洋戦争でも日本軍の優秀さは群を抜いたものだと思われます。軍隊は究極の能率、能力を求めるはずですからね。未だに、それらの戦争での優秀さがあるが故に日本国が一目置かれているという国際情勢もあるくらいです。

その原点はやはり島国かも知れません。狭い国土の中、個人個人が好きなことをやっていたのでは収拾がつかなくなります。そこで、「村八分」と言うような強い手段で、連帯、協調の障害となるような行動を戒めたと思われます。

「村八分」を避けるためには、周囲で何が起きているか知らなければなりませんから、情報収集も必要でしょう。どうも、この辺りから「他人が何をしているか知りたい」という動機が生まれて来ているのかも知れません。

現在、教育界では個性を伸ばすなんてテーマがあるようですが、従来の日本は、逆の動きをしていたように思われてなりません。「出る杭は打たれる」とか、同じ仲間、同種であることが美徳とされて来たという昔の日本人の考え方とは反対でもあり、取って付けたもののような気がします。

ちっともテーマである「おもいやり」に近づかないですね。(苦笑) 今回は、引き続き「日本人は仲間意識も強いですが、互いに監視し合う習慣が身についてしまっている。」という話から出られないかも知れません。私は、監視し合うが故に、敬語等が生まれ発展したのではないかと思っています。

長幼の序というのは古くからの日本人(アジア人)の考え方ですね、そして、役職の高い人も序列では上位になります。他の人が見ているから、こういう形式が生まれたとも考えられます。誰も見ていなければ、当事者同士の関係ですみますからね。

敬語、謙譲語、丁寧語、本来人間関係を円滑にするために発達したものと思われますが、こういうものは形式主義に陥りやすいものです。元来尊敬などは、自然に湧き出るものだという気がしますが、年長、役職の上位などで、形式的に使わなければならないというように変化して来たのだと思われます。

見方を変えれば、敬語、謙譲語、丁寧語は、心からであるか、形式的なのか、これを上手く隠蔽したものとも考えられます。長幼の序がなければ、米国などで一部の家庭で行われている両親を名前(ファースト・ネーム)で呼ぶことにも抵抗がないでしょう。日本では、体育会系では殊更に長幼の序を大切にしているように思われます。ここで言いたいのはその是非ではありません、念のため。

最近の若い人たちの仲間言葉は、敬語などの習慣に対する抵抗にも見えます。共通の言葉で仲間意識を持ち、形式的な表現に陥っている年長者への批判にも感じられます。私は、ある若い方から素直に仲間言葉で話しをされたことがありますが、ありがたく受け止めるべきなのでしょうが、通じないのでは困ったものだという経験を持っています。(汗)

by elderman | 2005-10-04 12:05 | えるだま雑記【案内画面】


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