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カテゴリ:えるだま雑記【案内画面】( 40 )


2005年 09月 18日

日本人の特殊性(18):ツアー

今回は一般的な観光ツアーをみてみましょう。今や日本人の海外旅行は一般的になってきているので、冒険旅行を楽しむグループ(なぜか年長者が多い。)もいるし、個人旅行を楽しむ人たち(若者が多い。)も現れてきています。

海外旅行ツアーというのは、すべてがアレンジされているし、内容の割には料金も安く設定されているので言葉の通じない外国旅行には最適のアレンジと言えるでしょう。どこに行くにも全部ガイド付きで、参加して解散するまで心配することは何もありません。その分自由時間がなくなるのはしょうがないことだと思います。

世界の観光地でさまざまな国からの観光ツアー客をみているといろいろと面白く観察することができます。ちょっと前の日本人観光ツアーと非常によく似た行為をしているのが韓国人グループです。本当にびっくりするほどやっていることが酷似しています。どたどたとやって来たかと思えばあっと言う間に去っていく。

最近の傾向として見られるのが、中国本土からの海外旅行ツアー客です。ちょっと前までは台湾からのグループが普通だったのですが、今はすっかり様変わりのようです。上海あたりのお金持ちでしょうか、中国本土の景気の良さが窺われます。顔つきではほとんど区別ができないこともあり、韓国人は日本人グループかと思ったりしますが、中国人グループはすぐに違いに気がつきますね。ファッションのせいでしょうか・・・

観光ツアーはもちろんアジア人だけではありません。よく見かけるのはドイツ人と米国人観光ツアー客でしょうか。日本人観光ツアーと同じようなコースを巡っているはずですが、あまり遭遇することはありません。一つの理由としては朝のスタート時間が違うのではないでしょうか。

日本人はいつも忙しく行動し、休暇の観光でしょうに、朝は早いですね。それともう一つの理由と言うか、原因でしょうか、夜の過ごし方が関係しているものとも思えます。西欧人の夕食は早くても9時頃からですから、ホテルに戻って寝る頃には12時を回ってしまうでしょう。日本人の夕食はだいたい7-8時くらいですから、生活時間帯の差に原因があるのかも知れません。

以前バルセロナに行ったときもそうでした。美術館のオープンが午前10時が普通なので、その前に開いている公園に朝一番でざわざわやって来たのは日本人観光ツアーグループでした。しかも何組もがやってきたのです。そのすべてが日本人でした。その時間に公園にいたのは犬の散歩をしたり、ジョギングをしている地元のスペイン人だけでした。え?私はなんでそこにいたかって?私の場合は、まだイランとの時差の影響が残っていたようで早起きしてしまったのです。

アジアの観光地では目立ちませんが、ヨーロッパ、中南米では日本人の早い夕食は目立ちます。レストランが開くのがそもそも8時頃ですから、待っていて一番乗りするのは日本人グループです。ですから、まだお客さんが誰もいないということになります。

昔のヨーロッパ観光ツアーでは、日本人グループはレストランの隅の席に追いやられると言われたものです。私が始めてヨーロッパに行った時もそうでした。食事の際の日本人の出す音が嫌われている最大の原因ではないと思っています。

ツアーを見ていて感心するのはドイツ人ツアー客です。彼らは徹底した合理主義で、経済的に海外旅行を楽しんでいるように見えます。まず、彼らの姿を5つ星ホテルで見かけることがない・・・多分、どっかシャレーのようなところか小じんまりしたホテルに宿泊しているのだと思います。

その延長として、タイのプーケットで見られるような白人村みたいのが開発されるのでしょう。ここの場合は1か月に及ぶような長期滞在が前提なので、ホテルなどに多額を払う訳にはいきませんね。プーケットの5つ星ホテルに団体で宿泊しているのは大体日本人か韓国人じゃないかなぁ。

日本人は決して臆病ではないのでしょうが、海外旅行の場合一番気にしているのが治安のようです。本人が注意していればいいだけなのですが、いいホテルに泊めたい旅行代理店の陰謀かも知れません。それでその結果として多くの日本人団体客が5つ星ホテルに宿泊するようになったものと思います。

ガイドブックもその陰謀に加担しているようです。どこそこの地区は治安が悪いので足を踏み入れないようにとか注意書きがあったりします。確かに日本人の身の安全を考えての注意書きでしょうが、そういう場所には結構楽しいところがあって、そこで遊ばれたりすると現地の旅行代理店の用意するオプショナル・ツアーの客が減ってしまうからだとも思えます。日本人は早く寝かせて、朝早くから観光地を案内すればいいというようなものでしょう。
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by elderman | 2005-09-18 10:52 | えるだま雑記【案内画面】 | Comments(4)
2005年 09月 17日

日本人の特殊性(17):暗算

今はスーパーマーケットでもどこでも買い物をした値段とお釣りが表示されるようになっていますが、その表示装置ができる前は日本では暗算で引き算をし、お釣りをもらったものです。外国では、買ったものの合計にお釣りを加えていって、差し出したお札と同額にするという方法が普通です。

日本人が暗算に強いということも背景にはあったでしょうが、思考方法にも原因があるように思えます。お釣りは出したお金から買い物分を差し引いたものという概念が強いように思えます。ですから、素直に引き算をするという具合でしょうか。引き算の暗算は単純ではないので、日本人は小さいうちから暗算の訓練をしたのでしょう。

もっとも最近は簡単な計算でも、「電卓はどこ?」ときょろきょろ探す光景は一般化していますね。それだけ電卓が一般的になりどこにでも転がっている代物になったようです。私の仕事上では、電卓の普及と数字に対する直感の欠如というのは少し気になるものです。私は物理屋なので答えのだいたいの大きさを事前に予想するという習慣がついています。今ではもう見かけない計算尺の経験でしょうか、計算尺では答えの桁は自分の頭で管理しなければいけない道具なのです。

数値に関する直感というのは、さまざまな資料に出てくる数値の信頼性に関係していまして、発展途上国にいて政府などから提供される資料をよく見ていると信じられないような数字が登場していることもしばしばなのです。数値の大きさに対してまったく感覚が働いていないから、とんでもない数字が一人歩きしているようです。計算間違い、引用間違い、単位の間違いに気がつかないままなんです。

私の仕事の関係では、本当らしい測定結果を知らないから判断できずに信じられないような数値がそのまま生かされているというケースもあります。「ppm」という百万分の1というような世界の話ですから、単位を間違えてもしょうがないとも言えるでしょうが、でも、小さいとは言えその濃度で人間の健康に影響があったりするのですから、軽視できる話ではありません。

暗算のエピソードとしてマレイシアにいたときのものがあります。詳細は忘れてしまいましたが確か面積に使っている単位がはじめてのものだったので、マレイシア人に聞こうとしていたのです。知っているというオフィサーを探し当てて聞くと、彼はとても親切な人で、長さの単位がこれこれで、メートルではこの長さというように丁寧に説明してくれたのです。で、私が「ならばこの面積はこれこれ平方メートルになりますね。」と言ったら、彼は無反応で、説明を続けているのです。そっか、まだ何かあるのかと5分くらい説明を聞いていると、親切にも彼自身が平方メートルの数字を計算しようとしているのでした。もちろん、5分後に出た結果は私がすでに表明していた数字と同じなのですが、彼の頭には残っていなかったようです。

外国で特に発展途上国で怖いことは、優秀そうな技術者に対して暗算の質問をすることです。その結果は信じられないくらいできないと聞いています。外国で親しくなった友人にはこの手の質問はしないようにしています、電卓を探せば済むことですから・・・ そんなところで妙にがっかりしたくないですからね。

ところで、イランの通貨の単位はリアルと言って、10,000リアルが120円程度です。数字の桁が大きいので未だに数字だけをみても即座に物価に換算できないで困っています。実は問題は数字の大きさだけではなくて、一般に使われている単位がもうひとつあることも原因しています。10,000リアルを1000トマンと表現します。

だから外国人の私は買い物の都度どっちの単位か確認しなければならないし、数字の桁も多いしで今でも一旦米ドルに換算して物価を感じるようにしています。これでも1ドルが8,900リアルなので暗算では難しいところです。百万リアル、百万トマン・・・ 未だにその大きさがピンと来ません。だいたい110ドルと1,100ドルくらいなのでしょう。日本の円も世界の中では数字の大きな通貨ですが、せめてそれと同様か以下が望ましいですね。イタリアのリラがユーロになって本当によかった。
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by elderman | 2005-09-17 11:40 | えるだま雑記【案内画面】 | Comments(6)
2005年 09月 16日

日本人の特殊性(16):残心

家族との別れ、友人との別れなどの際に、いつまでも後姿を見送る日本人。特に深い訳はないのに自然とそうなります。別れの挨拶をしたらクルリと振り向いて立ち去るというのではなにかものすごく心寂しく感じてしまうのでしょう。特別な感慨がある場合は別ですが、一般に外国人の場合は日本人に比べて淡白です。

挨拶の時には、日本人は淡白であると言いましたが、別れ際に関しては外国人の方が淡白に思えてしまいます。日本人の場合、家族、友人などとの別れの際の仕草が普通の付き合いの人に対しても敬意の仕草として表れているのでしょうか。あるいは形式化、様式化しているとも言えるかも知れません。まさか、何か大事なことを忘れてないかと考えているとも思えませんが・・・

私が仕事でブラジルに1か月滞在したときに、その1か月間一緒に行動してくれたブラジル人女性のアイマラさんは、私を飛行場に見送りに来て、私の飛行機が飛び立つのを見送ってくれたそうです。機中の私にはそれを知る由もなかったのですが、後日彼女が突然マレイシアに現れたときにそれを知りました。それを知るとやっぱり嬉しいというか感謝したくなるような気分になります。

いつまでも恩を忘れない日本人、何回も世話になったことに言及しお礼を繰り返す日本人、とっても大事なことだと思いますが、世界中で一番極端だろうと思います。ところが何にでも裏返しがあるように、この性格、習慣にも弊害があるのです。

経済大国のなった日本は、現在まで多くの国際協力を行ってきており、このところ米国と1位、2位を譲り合ったりしています。日本人は日本人の心の奥にある感情をこの世界にも当てはめようとしているように見られるときがあります。この場合日本人は発展途上国に恩を与える立場で考えますから、相手が感謝して当然であるというように考えてしまう訳です。

外国に対してそのまま日本人の感情や考え方を当てはめるのは少し危険でもあり、誤解のもとにもなりかねません。イスラム世界では、富める者が貧しいものを救済することは当然という考え方もあります。もっと言えば、施しをする者が善行をすることにより天国に一層接近できる・・・ つまり善行をさせてあげた・・・ というところまでの発想があります。

仏教にもこのような考えがあり、施す側がお礼を言うという習慣でしょうか。この考えは日本にもあったはずですが、ドライになった現在あまり見かけなくなったようです。反対に施された相手にろくなお礼もいってもらえないと憤慨する人もいるかも知れません。

国際協力でもこれが当てはまります。感謝されていない国際協力という批判がしばしばなされますね。日本が多額を拠出している円借款の国際協力が批判の対象になりますが、私が不思議なのは日本人でも銀行からお金を借りた場合、果たして銀行に感謝しているでしょうか。無利子に近い借り入れと言っても感謝はしないのではないでしょうか。円借款はこれに当たるので、相手国の人々から感謝の気持ちを期待するのは難しいと思います。

円借款は外交手段としても使われるので、その使途がどうであるかは相手国政府の問題ということがあると思います。相手国政府が必要だといい、それはおかしいんじゃないかと言うことは難しいような気がしますが、その円借款による公共事業が完成した後、あまり役に立っていないじゃないかという批判が日本の新聞記事になったりしています。

日本の発展途上国への無償協力(資金供与、技術援助)などは感謝されたいという気持ちは当然起きますが、期待しても相手国の習慣によるところもあるので、日本人の感情の物差しを当てはめるのは少し難しいと思います。まぁ、日本人を喜ばせ、もっと資金や技術援助を求めたいという下心があれば、感謝の表明という戦略はあるかも知れません。

外交に長けた中国、タイ国やイスラム諸国の人々に日本人と同じ感情を期待するのは止めましょう。日本人の情感のこもった残心というのは日本人の中の美徳として大事にしておくのがいいのかも知れません。

誤解されるといけないので付け加えておきますが、外交辞令というのはどこの国にも共通なので、受益者である国の代表者が日本に対して当然だというように振舞っているということでありません。そんな人、少しはいますけど・・・
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by elderman | 2005-09-16 02:46 | えるだま雑記【案内画面】 | Comments(4)
2005年 09月 15日

日本人の特殊性(15):プレゼンテーション

日本人にはなかなか馴染みのなかったプレゼンテーションですが、最近は「プレゼン」などと略されるなどずい分身近になって来ているようです。私は海外にいるので、多くのプレゼンテーションを見る機会があります。もちろん、講師の国籍は様々です。

プレゼンテーションってよく観察していると国民性が出ているので、とっても興味深く感じられます。もともと欧米文化が発祥でしょうから、欧米人のプレゼンテーションはとっても説得力があるので、参考にさせてもらっています。

日本人のプレゼンテーションはそれに比べ、内容はともかく、演出力に欠けているような気がします。熱意だけは伝わるのですが、内容がさっぱり分からない。多分、中身が濃すぎてそうなるのだと思うのですが、内容が伝わらないのでは何のためのプレゼンテーションなのか疑問に思ってしまいますね。

日本人のプレゼンテーションの特徴としては、まず色使いがとっても地味です。学術的、格調の高いものは地味であるというような信念なあるのかなとも思ってしまうほどです。その目立たないところに持ってきて、文字が小さい。内容がいっぱいあるということを言いたいのでしょうか・・・ でも、小さくて見えないから結局なんだか分からないのです。

スクリーンの近くに寄って、よーく見ると小さな数字の中に面白いものが見受けられます。なるほどなんて思っているうちに画面が切り替わります。あっ、もうちょっと・・・ ってな感じです。日本人の英語の説明だとどうしても短くなるというか、説明が続かないのでそうなりがちなことは否めませんが・・・・

一方、欧米人のプレゼンテーションは母国語のせいかも知れませんが、話し方をみている限りは、すごい迫力です。おまけにプレゼンテーションに用意された画面も簡潔すっきりで、カラフル。良さそうに思えますが、残念ながら内容がない。いままでの経験で言えば、多くの場合がそうです。少しの内容で目いっぱいデモンストレーションをしている感じです。中には中身の濃いプレゼンテーションもあるのでしょうが、十中八九はそんなもんです。私はアホらしくて会場から出てしまったことが何度もあります。聴衆がアジア人の場合、それでも我慢して聞いている人たちが多いのですが、何を観察しているんでしょうねぇ・・・・

かく言う私はいつも傍観者でとではいう訳ありません。プレゼンテーションは職務上、不可欠なものでして、好きだ嫌いだとは言ってられない状況にあります。日本人や欧米人のプレゼンテーションを批判をしているからには、私のプレゼンテーションはかなり派手です。グラフはできるだけシンプルにかつカラフルに、説明は急がずでしょうか。

私は日本語でも早口ですから、英語でも気をつけています。事前に話す原稿を用意してしまうと、どうしても早口になってしまうので、できるだけ用意しないで、その場で考えて話すようにしています。つまづいている時間、参加者に画面を見ている時間を与えたいと思っているからです。日本にいたときもできるだけそうしていました。早口人間の苦労でしょうか。

それと原稿を読むようなプレゼンテーションでは、参加者の興味を削いでしまういうことがあります。プレゼンテーションの鉄則は、参加者に視線を配ることでしょうか。絶対に眠らせないぞってね。ですから、午後一番の講演は大嫌いです。私の場合、参加者が眠たいと質問を投げかけたりするので、みんな眠れませんけどね。一人でも当てると、みんなヒヤヒヤしているものです。

私がマレイシアにいたときにやった約10時間のマラソン・レクチャー(1日半)では、その後のアンケートでそれでも時間が足らなかったというのがあって笑ってしまったものです。ま、冗談半分の回答だったのでしょう。
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by elderman | 2005-09-15 11:04 | えるだま雑記【案内画面】 | Comments(2)
2005年 09月 14日

日本人の特殊性(14):レディ・ファースト

日本ではあまりみられないレディ・ファーストですが、外国で生活していると常に気にしていないと粗野な人間だと思われてしまいます。日本でレディ・ファーストをやると妙に紳士気取りに見られるのが嫌ということもあるでしょう。日本人の照れでしょうか。

外国で日本人の旦那さんがどんどん先に歩いていって、奥様が後ろからついていくという姿はあんまり格好のいいものではありません。ドアのところでも男性がどんどん進んでいって行ってしまう。忙しい日本人ですからまどろっこしいことはやっていられないのでしょう。外国で日本人女性が男性に気を使っていることがありますが、これが渋滞の原因になります。さっさと女性から進んでもらわないと男性たちが遠慮して待っているからです。

イラン人はレディ・ファーストというより、譲り合いの姿勢を示すのが礼儀ということもあり、ドアのところではいつも渋滞ができてしまいます。狭いところで譲り合ってなかなか道が開かないのです。やれやれいい加減にしてほしいなと思うことがしばしばです。ところがこのイラン人、車を運転するとがらりと人格が変わるようです。先に突っ込んだ方が勝ちとばかり、すごい車幅感覚を生かして道を奪い合っています。すごい変わりようですね。

もっとも割り込んで来る車を運転しているのが若い美人で、彼女が微笑をみせたりすると、髭を生やしたイラン人男性運転手はニコニコしながら簡単に譲っています。これはレディ・ファーストとは言えないでしょうね。私はこの光景をよく観察していたのですが、当の女性、男性に対して自分のスマイルが効果的であるということを熟知しているようで、どうにもワザとらしさがありました。

タイ人は一般的に非常に丁寧です。運転している時、自分の車を割り込ませてもらえば、運転席から頭を下げています。さすが仏教の国だなぁと思います。ボーイフレンドの前ではタイ女性はまるで女王のように振舞います。これはレディ・ファーストじゃなくて女性の気を引きたい男性の弱みというべきでしょうか。

南米などラテンの国では、レディ・ファーストがかなり徹底しています。でも、南米では社会的に男性優位ですから、レディ・ファーストというのは逆に差別の裏返しかも知れないようです。女性として優先することころは優先してあげているのだから、他の分野ではしゃしゃり出ないでというようなメッセージを感じてしまいました。スペイン語では男女混合人たち複数形名詞は男性名詞の複数形にします。このことからも男性優位の歴史が感じられるでしょう。

レディ・ファーストというのはそもそも外敵から、あるいは危険から女性を守るのが原点だと思います。ですから何でも女性が先という解釈だと、場合によっては間違えてしまいますよ。エレベータやロープウエイはそれ自身が危険なものと言うことで、女性に先に出てもらうのは当然なのですが、入るときはどうなのでしょうねぇ。

タイタニックの映画で主人公の男性が女性を助けて死んでしまいますが、男性か女性かのどちらかが生き残るという意味では女性しかないでしょうね。男性では子供は産めませんから、種の保存という本能からは当然のことでしょう。

最後にちょっと小さな声で・・・日本人女性というのは世界一素晴らしいと思います。自己抑制が効いていて、無茶苦茶な自己主張はしないし、男性に尽くすという精神が育まれているからです。日本の社会というのは実に上手に女性を教育して来たものです。だから、日本人女性はどこの国の男性とも結婚できますが、日本人男性の場合は相当難しそうです。この事実は女性には知らせてはいけないものかもね。(笑)
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by elderman | 2005-09-14 11:23 | えるだま雑記【案内画面】 | Comments(22)
2005年 09月 13日

日本人の特殊性(13):淡白

日本人には気がつきにくいことですが、外国人からみた場合、親しくなった日本人でもよそよそしく淡白にみえていることと思います。それぞれの習慣から出ていることなのですが、日常的なことなので少し気になります。もっとも観光で短期間訪問した場合にはその国の人と親しくなるといっても知れているでしょうから問題にはならないでしょう。

人間同士の距離の置き方の違いとも言えます。日本人の場合、基本的にはスキンシップがないのが普通ですね。特別な場合に握手をする程度で、抱擁することはまずないし、挨拶でキスをする習慣もありません。日本人が外国人の挨拶の習慣を真似をするのはかなり勇気と慣れが必要になります。

私がまだ純粋な日本人だった頃、ブラジルに行って女性との挨拶で、左右の頬を交互につけてキスの真似(特に音が大事なようです)をするのがたまらなく恥ずかしかったのを思い出します。これは挨拶で地元では普通の行為なんだからと自分に言い聞かせても、やっぱり恥ずかしくてなかなかできないで、もじもじ。この時は1か月の滞在でしたが、帰国までにはなんとか克服したいと思ったものです。

その後ベネズエラに2年間滞在することがあったので、やっとこの習慣を平気でこなせるようになりました。もっともベネズエラのキスの回数は一回だけ右頬をつけてキスというもので少し淡白でした。親しい間柄では2回だったような気がします。

タイでフランス人女性と一緒に仕事をしたことがありますが、フランスでは4回だそうで、ラテンの国でも濃厚さはそれぞれの国で違うようです。この習慣に慣れたとは言っても、同じことを日本でできるかどうか自信はありません。日本にいると日本人の習慣が100%戻って来てしまうので、やっぱりもじもじかなぁ。

男性同士の場合は握手が世界共通ですが、TVでご覧になられたことがあるように、キス、抱擁という習慣を持つ国々があります。ロシア、東ヨーロッパ、中東がそうですね。女性とのキスによる挨拶には慣れたのですが、イランに来てこの男性同士のキスには参りました。日本人に迫ってくるイラン人はそうはいませんが、長く滞在していると仲間意識が強くなるので、そういう機会に遭遇することはあります。これまでに2回だけ経験しています。

それと男性同士ですが、手を握るようなスキンシップがあります。日本人は気持ち悪いという反応を起こしてしまいますが、現地では極めて普通の行為なのです。パキスタンで男性同士がよく手をつないで歩いているのをよく見かけました。日本ではホモじゃないかなんて言われそうな光景ですね。

それから会話をするときの距離、これは国によって違いますね。日本人のこの距離は比較的遠いので、それを基準にしてしまうと、相手がヌーッと接近して来て気持ち悪く感じてしまいます。なんでそんなに傍まで来るんだぁ・・・と思ってしまいますよ。相手から見れば逆にどうしてそんなに遠いところにいるの?という疑問を持たせてしまうでしょうね。

日本人のスキンシップはすごく限られているような気がします。子供が小さい時の親子は普通ですが、それ以外はデートでの男女くらいでしょうか。スポーツでは感動のあまり抱き合って喜ぶということができますが、普通の社会生活ではほとんどその機会はありませんね。

スキンシップというのは人間同士のつながりを緊密にするのにとてもいいことなのですが、日本人は潔癖症なのか、謙譲の意味なのか、恐縮の文化のせいか、物理的に距離を置くことが習慣になっています。意味不明の微笑みでその物理的距離を補っているとも言えるでしょうか。

階級性意識の強いタイ人は日本人と感性が似ているので、この意味からもタイでは過ごしやすいのかも知れません。タイ人の使用人は玄関の外に靴を脱いでから部屋に入って来ます。部屋の中も靴のままでいいというのにそうしてしまうのです。習慣から来る感性でしょうから強要しませんけどね。
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by elderman | 2005-09-13 11:24 | えるだま雑記【案内画面】 | Comments(6)
2005年 09月 12日

日本人の特殊性(12):なんでも師匠

なんでも師匠というか、なんでも「道」にするのが日本人は好きですね。それで、「師匠」やら「達人」、「先生」などの尊称がたくさん用いられているようです。茶道や俳諧がそういう源になっているのでしょうか。あるいはもともとそうした気質が日本人には強いのでしょうか。

この気質はドイツ人にも見ることができます。刃物で有名な「ゾーリンゲン」なんていうのはまさに職人気質からさらに高いレベルに達しているように感じられます。フランス人は食文化でしょうか、芸術の域にまで達しているようなものを生み出していますね。

日本の特有のものとして「有田焼」など各種の陶器がありますが、これらは朝鮮半島の人々が日本に渡って来て極めたものと言われています。戦国時代以降、日本人が職人芸を好み、この職人の待遇をよくしたからだと聞いています。朝鮮半島ではただの職人としか待遇を得られなかったものが、師匠として迎え入れられたのですから悪い気はしないでしょうね。

日本人の場合、なんでも極めたいという意識がとても強いように感じます。いろいろな分野のものが発達して来たのはこの意識が強いためだと思われます。一流のもの、最高のものを求めるという真摯な姿勢は素晴らしいものですね。最近の日本ではグルメブームでこちらにもさまざまな道が誕生しているようです。ラーメンの最高峰とかどこまで意味があるかよく分かりませんけどね。

ところがこの食文化では、東南アジアのレストランではそこまでの職人気質を見受けることはまずありません。ほどほどに美味しいものを提供していればいいというような姿勢を感じます。もちろん食べる方がそこまで期待していないというのが背景にありますから、職人気質も育たないのだろうと思います。経済的発展度が向上してくればいずれは目覚めるかもしれませんが、どうもそういう問題ではないような気がします。熱帯地方の国ではしつこく物事を追求するというのはちょっと難しいかも知れません。

タイ料理は美味しいものですが、飛びっきり洗練されたタイ料理というのには遭遇したことがありません。もちろん一流ホテルのタイ料理の仕上げは美しいのですが、それは西欧の価値観を持ち込んだだけのことで、味付けは辛いものが苦手な西欧人に合わされていて、とてもタイ料理としてお勧めできるものとは思ったことがありません。

タイ人が好む、タイ料理の最高のものを食べてみたいと努力しましたが、食材として新鮮であるとか、普通に美味しいという程度のものばかりでした。タイ人の案内で行くレストランは店の構えが豪華でなかなかのものです。そして新鮮な食材、多彩なメニューで喜ばしてくれます。でも残念ながらメニューがタイ語だけなので外国人だけでは注文に困ります。味付けだって特別に指定しない限りは現地人の楽しんでいる味で楽しめます。かなり辛いので苦手な人には難しいですけどね。

マレイシアにいたときに料理の味のグレードについてマレイシア人と議論したことがありますが、残念ながら彼らを納得させることはできませんでした。包丁の切れ味なんて説明しても分かる訳がないですね。日本人の職人芸は、食材選び、包丁の性能、包丁さばき、盛り付けまで微に入り細に入りとことん完璧さを求めるようなものです。

イランで高度な職人芸と言えるのは、細密画だと思います。その他金属加工による装飾品もありますが、高度な職人芸と言えるほどのものとは思えません。また絨毯は製作に大変な手間が掛かるので高価ですが高級な芸術品と呼ぶ気はしません。同じようなものとして中国の刺繍もすごいですね。

ところで、日本では尊敬されていい学校の先生などの社会的地位が下がってしまったのは残念なことだと思います。地位が人を作るということもありますから、将来を担う大事な子供たちの教育をする職業の人たちは立派であってもらいたいものです。
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by elderman | 2005-09-12 12:28 | えるだま雑記【案内画面】 | Comments(8)
2005年 09月 11日

日本人の特殊性(11):食文化

日本料理は世界一美味しいと日本人は思っていることと思います。でも、イラン人に聞いてもイラン料理が世界一だと同じ答えが返ってきます。これはどういうことでしょうか。知らないでそう言っているのかも知れないし、完全に自分の国の料理に慣らされてしまって、他の国の料理を受け付けなくなり、そう思っているのかも知れません。

私は個人的には同じ材料の料理を繰り返し食べることのできる国民は味覚的に未発達だと思うようになりました。和食専門の日本人でも三食同じ食材のメニューでは閉口することと思います。イラン人は三食といかないまでも羊の肉料理には飽きが来ないようです。ですから中近東の地域では食事のバラエティを求めるという発想がそもそも間違っていると思わされることがあります。レストランのメニューの種類は限られているのですが、それを美味しそうに食べているイラン人を見ると食文化の未発達と思わざるを得ません。もっともイランの家庭料理にはかなりのバラエティがあるのでいつも単調なメニューで我慢している訳ではないようです。

歴史的にみると日本というのはそもそも食に関して貧しい国だったように思います。山菜、魚、海草などはありますが、それですら毎日食べられると言うものではなく、漬物、味噌汁、ご飯で飢えを凌いでいた国民という気がしてなりません。江戸時代ではこれに豆腐、大根が加わりましたが、それでも知れたものでしょう。この頃の日本の食生活からタイやイランの食事をみると、彼らの食生活の方が遥かに豊かなように思われます。食材そのものが豊かだったんですね。だから、醤油や味噌なんて発明する必要もなかった。タイにはナームプラーという魚から作った醤油みたいなものがありますが、まぁ、これは例外的な存在でしょう。

イランでは調味料は、酸っぱいみかんや酸味の効いたザクロ、そして豊富な種類のハーブ類など天然の果物や野菜から求められます。乾燥した気候は果物や野菜に適しているようで、品種改良をしなくても美味しいものが栽培されています。もちろん季節に依存するのでいつでも食べられるというものではありませんが、その季節に食する機会があればラッキーとしたものでしょう。

今でも日本が武士道を通せば美食は敵ということになるでしょうが、もはや現代の日本は飽食の時代です。武士には禁じられていた味についての話題や、食事中の会話などが開放され、おしゃべりしながら食事をするという時代になりましたね。いや、むしろ武士道などの「道」の文化が味覚の方にも進出し、さらに美味しいものをいただくことのできる時代となったと言った方がいいかもしれません。

外国人に一番説明が難しいのが、刺身の味の優劣です。もちろん新鮮な食材ということはあるのですが、これだって魚の死後直後が一番かどうか議論のあるところですから決定的とは言えません。となると食材の保存状態、そして包丁の切れ味というなかなか理解しにくい話を持ち出さないといけなくなります。日本人としては確かに包丁の切れ味が悪いと刺身は美味くないのですが、外国人にその説明をすることは非常に難しいものです。

日本の食文化というのはその基本に前述した食料の貧しい国という前提があったと思っています。だから何でも食べる。ウナギでもドジョウでも、ウニでもフグでも、ホヤでもオコゼでも・・・、海草ですら食べてしまいます。陸地に豊富に食料があったなら、多分食べるという気にならなかった代物かも知れません。今のイラン人をみているとこの仮説が正しそうに思えて来ます。

何でも食べることで有名な中国人は、その人口が食料の供給を上回るほど過多だったと言うのがその理由ではないかと思います。そんな背景を抜きに日本人は日本にはいろいろ美味しいものがあるなんて言ったりしていますが果たしてどういうものでしょうかねぇ。むしろ何もないというお陰で食材に対する味覚が発達したと言えるような気がします。
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by elderman | 2005-09-11 16:59 | えるだま雑記【案内画面】 | Comments(4)
2005年 09月 10日

日本人の特殊性(10):ジェスチャー

習慣の違いというのはジェスチャーにも現れています。イラン人に笑われるのは、自分を示すときの日本人のジェスチャーです。大勢の前では手を上げるかも知れませんが、少人数の時にはなぜか自分の鼻を人差し指で差していることと思います。これはとってもおかしな行為に思われているようです。自分を指すのが鼻だって・・・「きゃはは」ってな具合です。

 ではイラン人はどうするか。右手で自分の心臓の上に手を当てる仕草をします。西洋人もそうですね、胸に手を当てるでしょう。東アジア人がどうするか忘れましたが、どうやら鼻を指すのは日本人だけかも知れません。この動作、他の国と比較するとどうにも滑稽に見えて仕方ありません。

日本人の特殊性はジェスチャーにもちゃんと表れています。「おいで、おいで」の意味で日本人がやるのは、手を前方に出して、手の甲を相手側にして、指を下にして引き寄せる動作をしますね。でも、これ西欧諸国の「あっちに行け!」のジェスチャーに似ているのです。まったく意味が反対ですね。 厳密には日本人のジェスチャーでも指の動きで引き寄せる感じが伝わりますから完全な誤解っていうのは避けられるでしょうけど、形だけみると非常によく似ています。

「おいで、おいで」のジェスチャーは手の甲を相手側にして指を上に立て、それをこちらに引き寄せるようにするのが世界では一般的です。下向きというのはちょっと意味が悪いので、反対の上向きで相手を誘うのでしょう。日本人のものは、「あっちに行け!」とは取られなくても、まるで犬に対して「こっちに来い!」というようなジェスチャーに見えてしまいますから、少し注意がほしいですね。

イランでは、何回も振らないで一回だけ日本人の「おいで」と同じジェスチャーをやると、「持って来い!」という意味になります。テーブルの上に手を置くような仕草です。「持って来て、ここに置け!」という仕草に見えませんか?

アメリカ人のやる親指を立てる仕草、イランでは「くそったれ!」のような意味になります。ブッシュ大統領がそのポーズをしていましたが、中近東の習慣を知らないと言う事でしょうか。同じ仕草を日本人がやるとボスの意味になるでしょうね。

イラン人の「はい」のジェスチャーは首を横に傾げます。まるで「いいえ」のようですね。(笑)でも 日本の「いいえ」のように横に振るのではありません。横に傾げるのです。日本人がやると「どうかなぁ?」、「怪しい・・」という仕草に近いでしょうか。でも、イランにいるとこの仕草でも「はい」に見えるから不思議です。

お金を示すジェスチャーも相当違いますね。日本人は親指と人差し指とで丸を作りますが、一般的にはお札を数える仕草の真似として右手の親指と人差し指とを使いますね。指で丸を作っても外国人はお金のこととはみなしてくれません。多分、男性ならエロいことを連想するはずです。

タイ人が挨拶の時に相手に対してお祈りのように手を合わせる仕草、私は好きです。敬意の表明にはその手の位置が心持ち高くなります。王族に対してはかなり高い位置で敬意を表明しているようです。日本人が自分に対してそれをやられるとまるで自分が仏になったようですっきりしませんけどね。

仏教徒のやる両手を合わせるお祈りの形は自分の心を落ち着かせてくれますが、イラン人の「どういたしまして」の意味で使う右手を胸に当てるというのもなかなかいいものです。利き腕の手を胸に当てるというのは心からという意味もあるでしょうが、攻撃しないという意味をも持つのでしょう、ものすごく平和な感じがします。イスラム教徒であるイラン人はそういう仕草をします、イスラムの国は治安が悪いなんて間違った宣伝には乗らないでもらいたいものです。
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by elderman | 2005-09-10 00:03 | えるだま雑記【案内画面】 | Comments(8)
2005年 09月 08日

日本人の特殊性(9):しかめっ面

日本人には他人のやることを見て「しかめっ面」をする人っていますよね。でも、この習慣、外国ではあまり見かけません。少ない例としては以前マレイシアで、私が屋外のレストランで食事をしてその後で煙草を吸っていたら、そばを通り過ぎようとした米国人と思しき中年の女性に煙草の煙を手で払いながら「しかめっ面」をされたのを思い出します。私は屋外だしわざわざ私の脇を通ることもないだろうに、と不愉快に思ったものです。

「しかめっ面」の光景を思い出そうとしてもそのくらいしか思い出せないくらいですから、外国ではいかに見かけないかお分かりいただけますでしょう。南米では電車の中などで隣がどんなにうるさくても「しかめっ面」をする人はいないし、子供が暴れてもむしろ笑顔で見ています。

「しかめっ面」という行為は単に不愉快ということを表情に出すというより、他人の行動に対して無言ではありますが、批難の気持ちを表情で表し、さらには周囲の同調を求めるという意味が込められているような気がします。消極的な抗議の意味があるのではないでしょうか。

日本人は小さい時から、「みっともないから、やめなさい」とか「他所の人に笑われますよ」などと言われ育てられて来ており、他人にどう見られるかいつも気にする習慣が身についてしまったようです。女の子の場合、「しかめっ面するものじゃありません」とか「眉間に皺をつくるのはいけません」と教育されて来ているものと思います。

日本の女性は眩しくても、あまり「しかめっ面」をしませんね。こういう場合外国人の女性は自分の顔の変形など気にもせず思いっきり「しかめっ面」をするものです。眩しいのだからしょうがない、他人の目などまるで意識していないようです。もちろん笑うときもそうですね。日本人の女性は口を隠したりしますが、外国人女性の場合大きな口を開けてケラケラ笑っています。最近の日本人女性は少し変わって来ているようですから、必ずしもみんなという訳ではなさそうですけどね。

女性の場合、水着でもそうですね。誰が見ると意識するのか、自分の体形を強く意識しているようです。胸がないからビキニは着られないとかですね。南米の女性たちはどんな体形であっても自分の着たいものを素直に着て堂々と楽しんでいます。実際問題、本人が良ければいいじゃないのと微笑ましく感じられるものです。

水着だけじゃないようですね、年をとったら妙に地味なのは着られないとか、年齢の割には派手だとかね。本当に他人の目を意識することが多いようです。その反面、「他人をじろじろ見るものじゃありません」と矛盾したことを言っていますね。イラン人は平気で他人のことを上から下までじろじろ見ます。「なんだこの野郎!」って思いますけど、別に本人は悪いことだと思っていないのだからしょうがない・・・。

じろじろ見てはいけないけど、その裏で実はよく観察しているというのが日本人のようです。この監視し合う習性がひょっとして勤勉な日本人を作り出したのではないかとも思えるくらいです。勤務時間が終わっても課長が帰るまでは仕事をしている振りをする。振りですからサービス残業ではないですね。前日に飲み過ぎて、二日酔いでも這ってでも職場に出てくる。仕事なんてできる状態じゃないのにその努力を評価してもらいたいのでしょうか。

見られていることを意識した行動は実際多いと思います。「しかめっ面」は見られているという習慣を利用し、当事者だけでなく周囲にまで批判の気持ちを伝え、同意を求めるという高級な手段なのでしょう。そして「しかめっ面」をされた当事者あるいはその親は誰かに向かってというものでなく独り言で言い訳をしてみたりして、「本当にしょうがない子なんだから」とか・・・。 なんとも日本的な光景に思えます。
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by elderman | 2005-09-08 00:01 | えるだま雑記【案内画面】 | Comments(12)