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カテゴリ:えるだま雑記【案内画面】( 40 )


2005年 09月 30日

日本人の特殊性(28):セックス産業

何でも自由に思われそうな米国ですが、ことセックスに関しては非常に保守的な面があります。未成年から徹底的に隔離しようとする規制は徹底しています。クリスチャンの精神性からだと思います。南米でもポルノ誌はどこでも売られているものの、ちゃんと表紙が見えないようにしてあります。日本ではこの点ルーズな面があるのは否めないことです。

文化的に進んでいると思われるヨーロッパでは、ホモ・レズがその権利を主張してパレードを行い、デモンストレーションをやっていたことがありました。私がドイツのケルンを仕事で訪れていたときにちょうど出くわしました。異様なテーマではありますが、お祭り騒ぎのような雰囲気で妙に明るいものでした。大聖堂で有名なケルンですが、その町には「おとなのおもちゃ」みたいな店が軒を連ねていたりして、なんとも奇妙に思えたものです。

ドイツにはあちこちの国から出稼ぎに来ているので、セックス産業も盛んなのでしょう。厳格なドイツ人気質の別な面を見るような気がしました。非合法なのかどうかは分かりませんがベルリンの街中にも怪しげな店がありました。好奇心旺盛な私は、ドアーにある小さな窓から「入れるか?」と聞いてみたものです。まるでマフィアのアジトに入るようなぞくぞくする気分でしたが、あっさりと中に入れてもらえました。でも中はなんてことのない、ハリウッド映画にあるようなスネーク・ショーをやっているポルノ・バーでした。この程度ならアメリカ大陸ではどこにでもある代物です。ベルリン滞在中に飲みに行った店では、モロッコ人、ポーランド人のダンサーやら娼婦を見かけました。本当に出稼ぎが多いのだと思ったし、簡単に稼げる商売としてセックス産業があるということを確認せざるを得なかったです。ということで表面には出ないけど、先進国ではなんでもありということが現実のようです。

売春で有名なタイ国では、一般庶民はそのような印象とはまったく反対の保守的な環境で育っています。自国のセックス産業の存在は知っていても、それらを激しく嫌悪しているのがよく分かります。ちょっと前には人身売買などでニュースになったタイですが、最近はバンコクで育った一般の女性までがセックス産業に簡単に入ってきているようです。連れ出しもできるクラブでホステスを指名したら大学卒業だったことがありますが、まだ3日という話を聞いて、セブンイレブンの売り子でもいいからこういう仕事から足を洗うように諭したものです。翌日から辞めると言ってましたが、どうなったでしょうか・・・

イスラムの国々はセックスに関しては極めて保守的です。女性の髪の毛を隠すという行為からも窺えることでしょう。しかしセックス産業は一次欲求を満たすものですから、規制してもなくなるものではないようで、マレイシアでもイランでも夜道端に立つコールガールというものはいるものです。宗教警察が監視していても一向になくならないようです。外国人がうっかり手を出したりすると国外追放になってしまうので、私はそれ以上のことは分かりません。

米国によって占領されたイラクではポルノショップが大流行というのはもう周知のことと思います。イラクの信仰心の厚い人たちでしょうか、それを嘆いて爆弾テロを行ったりしています。映画館も今ではポルノ映画ばかりという様子です。今まで禁じられていたものですから、しょうがないと言えばしょうがないのでしょうが、どうにも一次欲求は宗教よりも強いようですね。

統制の厳しいイランですが、インターネットは妙なサイトへのアクセスは時々アクセス禁止などの介入が入りますが、そんなことをしてもサイトなんて次から次へと出てきますからほとんど意味がないでしょう。そういう意味ではイラン人は免疫というか抵抗力があるので、ポルノが解禁されたとしてもイラクのようなことにはならないと思っています。いいんだか、悪いんだか。

インターネットのお陰で、ポルノ雑誌の会社が閉鎖になることろが出てきました。技術の進歩というのはいろいろな分野でも栄枯盛衰をもたらすものです。米国ではインターネットを使ってオフィスからポルノ・サイトにアクセスしている人の割合が高いということで問題になったりしています。新しい社会問題も起きているようです。
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by elderman | 2005-09-30 12:22 | えるだま雑記【案内画面】 | Comments(2)
2005年 09月 29日

日本人の特殊性(27):和製英語

和製英語ってのは多いですね、うっかりすると使ってしまいそうです。まず、典型的なものを挙げると、オフィス・レディ、ナイター、プリペイド・カード、バック・ミラー、ハンドル、ウインカー、ツー・ショット、ブラインド・タッチ、コンセント、イメージ・ダウン、シャッター・チャンス、スポーツマン、スキンシップ、(ホテルの)フロント、マザー・コンプレックス、ホチキス、キャッシュ・カード、ハイセンス、シャープ・ペン・・・などなど

ゴルフ用語にもいろいろあって、外国人とのプレーの時はヒヤヒヤします。スリー・パット、ニアピン、ティー・グラウンド・・・などかな。「ナイス・ショット!」ってのもあまり使いませんね。「ビューティフル・ショット!」か「グッド・ショット!」が普通です。

英語らしきものを組み合わせて新しく単語を作ってしまうのですから、日本人の応用性というのは大したものですね。英語というのも相当いい加減な言語なので、どんどん名詞を繋げて表現できてしまいますが、ラテン語系の言語ではそれができないので、とても面倒です。日本語の「の」に当たる助詞を全部につけなくてはならないのです。ドイツ人から聞いたのですが、「商談は英語で契約はフランス語で」という言い回しがあるそうです。つまり、ラテン語系の言語は表現が厳密だと言うことですね。

私の知り合いの人が、ホチキスという人とゴルフを一緒にやったことがあると言っていました。ホチキスを開発したホチキスさんの末裔ということになるのでしょう。因みに、ベンジャミン・B・ホッチキスは機関銃の発明者で、弟のエーライ・H・ホッチキスがE・H・ホッチキス社を興したそうです。儲けたのは弟の方でしょうから、やっぱりエーライですね。(笑)

英語で言いにくいのがセロテープかなぁ・・・粘着テープと言っても通じないし、スコッチ・テープって言っても怪しい感じです。バルセロナでバンドエイドを買おうとした時も単語が分からず、困ったものです。いろいろ説明しても通じないので、「バンドエイド」ってやけくそで言ったら通じたけど、なんでだろ?日本の商品名のような気がするのですが。(笑)

子供が小さい頃、グアムに行った時、紙おむつを買うべくスーパーマーケットに入り、「パンパース」はないかどうか聞いたら全然通じませんでした。おかしいなぁと思っていると、「パンパース」の発音が悪かったようで、「パンプース」というように発音すれば通じたんです。英語の曖昧母音は日本人にはちょっと発音しにくいですね。「ガール」だし、「パーパス」だしなぁ・・・

あ、和製英語の本当の表現を書かないといけないかな・・・ では少し調べてみましょう。

オフィス・レディ・・・female office worker
ナイター・・・・・・・・・night game
プリペイド・カード・・ま、通じるかな(汗)
バック・ミラー・・・・rearview mirror
ハンドル・・・・・・・・steering wheel
ウインカー・・・・・・blinkers かな winkersでも通じるかも
ツー・ショット・・・・うーん・・・特に言い方ないでしょ
ブラインド・タッチ・touch typing
コンセント・・・・・・・AC outlet
イメージ・ダウン・・image harming
シャッター・チャンス・・・むむむ、これも特別にはないような
スポーツマン・・・・athlete
スキンシップ・・・・physical contact
フロント・・・・・・・・reception
マザコン・・・・・・・Oedipus complex
ホチキス・・・・・・・stapler
キャッシュ・カード・・ATM card でいいのでは
ハイセンス・・・・・good taste
シャープ・ペン・・mechanical pencil
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by elderman | 2005-09-29 13:54 | えるだま雑記【案内画面】 | Comments(16)
2005年 09月 28日

日本人の特殊性(26):言葉の短縮

日本人ほど言葉を短縮する人たちって他の国ではあまりみかけないですね。セクハラ(セクシャル・ハラスメント)、リストラ(リストラクチャリング)、ボディコン(ボディ・コンシャス)、ロリコン(ロリータ・コンプレックス)、チョベリグ(超ベリーグッド)、あけおめ(明けましておめでとうございます。)、パソコン(パーソナル・コンピュータ)・・・などなど。あっ、私も「エルダーマン」を短くして「えるだま」にしていました・・・(汗)

もともと漢字の長い固有名詞はどんどん短縮して使っているので、この辺りから短縮への抵抗がなくなったのでしょうか。東関道(東関東自動車道路)、環八(環状八号線)、圏央道(首都圏中央道路)・・・などなど。鉄道の路線も都市の名前から作っていますね。京成電鉄(東京ー成田)、埼京線(埼玉ー東京)、東横線(東京ー横浜)・・・などなど。

それから長嶋元監督じゃないけど、日本語で話をしているのにやたらと英単語が混じる人。英単語というよりも、カタカナ外来語ですね。非常に軽薄に響いて来ます。「よくリサーチをして、そのリザルトをイフェクティブに活用しないといけない。」・・・「よく調査して、その結果を有効に活用しないといけない。」でいいんですけどねぇ。

国際的にも、長い英語の熟語をイニシャルにしてしまうことはよくあります。TORとかC/Pってのは一般の人には分からないイニシャルでしょう。世界的にもイニシャルでの省略はかなり多く見かけられます。国際連合をユナイテッド・ネイションと言う人はほとんどなく、みんなUN(ユーエヌ)ですし、ユーロピアン・ユニオンはEU(イーユー)として定着しています。

また、完全に日本語になっている英語も多くありますね。これらは日本語に置き換えたら却って変です。コンピュータを電子計算機という人はまずいないでしょう。ウインドウズを窓って言う人や今でもCDをコンパクトディスクって呼んでいる人っているのかなぁ。エクセルを表計算ソフトって呼んでも面白そうですね。メディア・プレーヤーなんて日本語にできないかも・・・ 媒体演奏機かな。

という訳で、日本語が相当乱れて来ているというのに、さらに意図的に一層乱している若者たち、なんとも困ったものです。若者言葉は仲間言葉として連帯感を表現するのに使用されているそうですが、コミュニケーションを阻害するということを意図的にやるのですから、どうにも逆行、反動としか受け止められないですね。この傾向は日本だけだと思います。

日本語の語尾の変化については前に検討したことがありますが、非常に豊富なことに驚きました。それだけニュアンスに拘る国民性ということができるかも知れません。方言もかなり語尾に出ているようなので、語幹を保ちながら地方に合う形で定着したのかも知れません。

英語でも実は言葉使いはかなり乱れているように思われます。古い映画をみると綺麗な英語の台詞が聞こえて来てほっとしたりします。本当らしさを追求するあまり、俗語での会話が氾濫して来たのでしょうか。テンポも速く、乱暴な表現も増えましたね、そういう時代なのでしょうか。どんな台詞の中にも「ファック」とか「ファッキン」とか入っていた映画を見たことがありますが、あれはどうにかならないものでしょうかね、もちろんマフィアの話でしたが・・・・

日本語にはその上、隠語もあります。業界用語ともいいましょうか。知らないとさっぱり分からない言葉ですね。寿司屋の業界用語が元祖なのでしょうか。「がり」、「しゃり」、「げそ」、「あがり」、「むらさき」などですね。

言語は文化そのものですから、日本人の特殊性とは言い切れませんが、日本語はもともと難しい言語だと思われるのに、これだけ乱れたら日本語を勉強したい外国人が困りそうです。実際、彼らの方が正しくて丁寧な表現を使いますね。親しみを込めて日常的な表現で答えると通じなかったりして、こちらが恥ずかしくなったりすることがあります。

それにしても語学をやると、どうして最初に「私は○○です。○○から来ました。」なんて覚えるのでしょうかね。こんなことを聞かれたことは未だにありません。ましてや、「これはペンです。」なんてまったく無意味ですね。
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by elderman | 2005-09-28 08:20 | えるだま雑記【案内画面】 | Comments(12)
2005年 09月 27日

日本人の特殊性(25):出る杭

「出る杭は打たれる」、集団で仕事をする日本人の間では常識でしょうか。能力のある人間が能力を出せないとしたらそれは大きな損失なのですが、日本では能ある鷹は爪を隠さないといけないようです。人間の負の精神作用である「妬み」、「やっかみ」、「嫉み」なんて煩わしいものからは逃れたいものです。

ところが日本でも「出る杭」以上のスタンドプレイを賞賛する環境はあります。スポーツ選手、タレント、ミュージシャン、アーティストたちですね。つまり完全に自分たちの世界から離れた存在とみなされればもう「出る杭」は打たれないと言えるでしょう。ですから仕事でも「出る杭」がいけないのではなくて、ちゃんと能力が発揮できるように、周囲から自分がそうみなされるようになればいいのです。要するに中途半端から抜けちゃえばいいんですよね。この辺りは日本人の面白い心の動きのような気がします。

「出る杭」をやめるか、それとも出るかは、得意な分野であるかどうか、あるいは個人の問題でしょう。調和を主体にいい仕事をするのもいいし、縁の下の力持ちというのも大事な役割です。ここではどれがいいかという議論ではなくて、「出る杭」を認めるという日本人の心の動きを見つめてみたいと思います。

みんな一緒である、同じであるという基本的な考え方が日本人同士の競争を生み、ある意味活性化をもたらしていると思います。TVのどこかのCMでも、「お隣より大きい」なんて言い回しがありました。みんな同じだという意識と、少しだけ勝りたいという日本人の微妙な心境を表したもののように思われます。

組織では仕事のやる気を促すものとして人事管理があります。ポストに優劣をつけて同期の職員の競争心を刺激するやり方です。ポストにはそれぞれの役割があり、もともと優劣なんてないものですが、そこに序列をつけて昇格したと思わせる。巧妙な人事コントロールだと思います。なにしろ余分なお金を必要としないで職員のやる気を起こさせるのですからね。組織を作るときに番号などをつけて呼ぶと、やがてはその数字の順番にポストとしての上下が付けられてしまうようです。第一ってのが一番で、第二と付いているのは二番というように、まったく実際的な意味はないのですが、人事のマジックのタネにされてしまうようです。

これらは自分たちがほぼ同じ能力であるという共通認識から来るものでしょう。そして、誰でも自尊心という心の作用によって自分はどこか少し優れているという気持ちがある。だから誰かが「出る杭」のような行為をするとそれは歓迎されない。「目立ちたがりめ」としかめっ面をされるかも知れません。そしてその行為が認められたりすると、「妬み」、「やっかみ」、「嫉み」の対象になる可能性が出てきます。多分心の底に、同じ能力なのに要領のいいやつだという批判が伴うからでしょう。

「みっともなくないように」、「出過ぎて杭を打たれないように」などと日本人というのはいつでも周囲を気にして行動しているようです。そして完全に出過ぎてしまった人はそれはそれで認知される。なんとも複雑な国民性のような気がします。スポーツや芸術以外では、政治家ってのが出過ぎたい人の典型かも知れませんね。

外国に出て仕事をすると、爪などは隠していられませんから、派手にとはいいませんが、それなりのパフォーマンスは必要になります。謙虚さも必要ですが、率直に自分の能力をみせて認知されないと仕事が始まりません。なにしろ評価されないことには人の心は動かせませんからね。私はできそうもないことをできると大見得切るのは大嫌いですから、どこまでやれるか分からないような場合にはちょっと苦しいですね。

イラン人相手の場合は、かなり知的水準が高いので、大風呂敷などのスピーチはあまり効果がなく、個人の能力の方が評価されるようです。チームワーク、協調心がまるっきりない国民性ですから、必然的に個人の能力が注目されるのでしょう。イランでは「出ない杭」は捨てられるかな・・・ いや、これは世界中でそうだと思います。

チームワークの日本人ですが、どこまで世界で通用するでしょうか。文化、習慣から来ているのでこれを他の国に移植することは至難の業に思えます。逆に言えば、それ故に日本はこれからも長く先進国でいられるかなぁ・・・ 
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by elderman | 2005-09-27 11:30 | えるだま雑記【案内画面】 | Comments(8)
2005年 09月 26日

日本人の特殊性(24):ディベート

日本人の苦手なものとしてディベート(討論)があると思います。日本人の場合、議論に熱が入り過ぎるのか、感情が出て来てしまうのか、論争の果てに感情的「しこり」が残ってしまうのでしょう。政治の世界ではこれを避けるために裏工作が行われ首相候補が知らない間に絞られたりしています。肝心の国民にはどの議員がどういう主張を持っているのか分からないままにいつの間にか首相が決まっているということになりますね。

お隣の韓国人はこのディベートは得意なようです。議論になるとかなり過激な論調で主張を繰り広げます。ところがその過激と思われる議論の後で、彼ら意外にケロリとしているのです。感情を引きずらないんですね。思う存分議論して、主張が通っても通らなくても、討論が終わればいつもの通りという感じです。これは慣れると案外気持ちのいいものです。

日本人同士では「まあまあ」や「なあなあ」ということで、できるだけ感情の衝突を避けようとするので、結局争点や論点がはっきりしないままに結論が出されてしまう傾向が強いようです。円満解決を旨とする生活の知恵なのでしょうが、国際化、グローバリゼーションの中では分かりにくいものとなるし、日本以外のところでは通用しない方法とも言えるでしょう。

一方日本でのTVなどで政治討論会が行われていますが、いつも思うのですが、出席議員は自分の主張をするだけでいつも一方通行ですね。これは明らかに討論ではなく主張会でしかないですね。進行役は視聴者にどのように映るかを想定しながら進行させているようですが、問題が起きるのはその場ではなくて、後日発言した内容が嘘として発覚するような場合に限られるようです。

政治家の虚虚実実の駆け引きはTVで放映されない世界で行われているので国民に見えないのは当然ですが、果たしてこのような政治を繰り広げていていいのでしょうかねぇ。国会での質問だって、質問者から事前に内容が提出され、答弁書が事前に準備されるので、スムースな議事進行ができるので、決して八百長ではないのですが、野党の爆弾質問のようなものでもこのルールに則っているので、見ている方はなんだか白けてしまいます。

与党側の答弁書の多くは官僚たちによって用意されます。これだから日本の政治家は怠慢だとも言われ、官僚に牛耳られたりするのでしょう。官僚批判をし、政治家による政治なんて騒いでいるけど、そもそもは自らの不勉強、怠慢が招いたことではないかと思えて仕方がありません。

日本人の心の奥底には、現実世界では清濁併せ呑むということを肯定する気持ちがあるようです。衛生面では潔癖な日本人ですが、精神面では潔癖さを未熟さと同じように見做しているような価値観を感じます。民主主義の進んでいるヨーロッパの国々ではこの辺はかなり違うように思われます。政治の未熟さは、「暴力などの圧力で動く」、「お金の力で動く」の順らしいですが、日本も米国もどうやらまだ「お金で動く」の段階にいるようです。

政治にはお金がかかると言われますが、ではそれをどうやって回収しているんでしょうね。損してまで政治家をやっている議員ってのはそうはいないのではないでしょうか。ディベートにより個々の政治家の主張が明瞭になるということがないから、世襲議員が登場するのだとも思えます。確かに政治家という親の影響はあるでしょうが、いったいどういう価値観でどういう主張を持った人かも分からずに当選していくものですね。まったく知らない人よりましというだけの選択基準だとすれば日本の政治は幼稚園レベルなのかも知れません。

米国の大統領選挙の方法がベストかどうかは分かりませんが、候補者がそれぞれの主張をしてそれから候補者が絞られていくという姿は少なくとも日本よりは進んでいると思われます。もっともどこかの州知事選挙では有名なアクション俳優が当選したりしているので、米国の選挙というのもいろいろ問題がありそうです。

今、学校教育の中でディベートを取り入れようとしているようです。これから若い世代の人々が堂々と主義主張を繰り広げられるようになるといいと思います。明治時代の文壇、歌壇では文芸批判が活発だったのですが、そういう文化はどこへ行ったのでしょうかねぇ。
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by elderman | 2005-09-26 09:52 | えるだま雑記【案内画面】 | Comments(8)
2005年 09月 25日

日本人の特殊性(23):自己主張

日本人というのはなかなか自己主張しない国民性を持っていると思いますね。特にみんなが初対面だと誤解を招くのを怖がるのか、まずは様子見というのが習性なのか、各自の意見は誰かに促されないと表明しないようです。最初のこの気まずい時間ってのは私にはたまらなく苦痛に感じられます。時間の浪費とも思いながら、それでも参加者の顔色を覗っている自分も日本人そのものですけどね。

日本人社会の中で、日本人が自分の意見を言わないか、自己主張をしないか、というとそうではないのです。ただなんと言うか、日本人社会の中では、意見を言える人間と、言っても聞いてもらえない人間ができて来ちゃうということがあるようです。日本の会議では、まず一番偉い人は聞き手に回りますね。そして意見や提案を述べる部下がいる。一番偉い人の決定は最終決定ですから、結論が出れば会議はお仕舞いということになります。

面白いのは、担当が決まっていないときなどのオープンな会議の場合、日本人同士の場合、発言の内容よりも誰が発言したかというところに力点が置かれているように思われます。これは多分言葉による表現力に限界があるということを承知しているところから来るのではないかと思います。不言実行という諺もあるように、日本人社会では理路整然とした立派なことを言ってもあまり評価にはつながらないようです。では何が重要かと言うと、それは発言者の人となりということになるでしょうか。

不思議なもので、何回か同じメンバーで会議をやっていると、メンバーの発言に軽重が生じてくるようです。「彼はいったい何者なんだ?」、「あんなこと言っているけど?」、「へぇ、切れ者なのか。」、「いつもああいうことを言っているのか。」、「でかい態度だけど何者なんだ?」・・・などなど、ひそひそですね。

ですから、会議の出席者で自分の支持者がいたりすると雰囲気は大きく変わります。支持者と言っても特別何をする訳でもないのですが、自分の話を好意的に聞いているという雰囲気は不思議と伝わるもので、それが会議の雰囲気まで支配するようになります。話し方が上手いかどうかというのはあまり関係がないようです。日本の場合、むしろ雄弁な方が信用という点では不利なようです。

自分の担当範囲のことだけしか言わない人もいれば、他人の分野にまで興味を持って聞いている人もいます。会議をまとめる事務局は、賢くないといけないですね。エキセントリックな意見に振り回されてもいけないし、重要で有用な意見を軽視してはいけません。これはどんな会議でも重要なことで、事務局というのは権限の強いものです。普段は会議場の雑用ばかりしているように見えますが、しかしてその実態は権限に裏づけされたものだったりします。

事務局というのは自己主張を直接する立場にはあまりないものですが、実は会議全体をコントロールしているという性格を持っています。信頼されていない事務局では議事進行がスムースにいかないことは自明なことでしょう。ではその信頼はどこから来るかというと、会議の席上ではないのですね。裏技とは言いませんが、会議じゃないときの交渉、付き合い、人間関係から来ることが多いと思います。そして、その延長として5時から男が現れてくる。

「5時から男」ってのは海外ではまず見ないですね。5時からの世界で、本音を吐き出して、調整をする。会議ではその本音は暗黙の了解事項ということであっさり片付けられる。いかにも日本的でしょう。会議の席で参加者はその臭いを嗅ぎ取る神経も必要になるでしょう。知っていてちくちくやる人もいますけどね。議事録をとっても行間まではなかなか読めないものです。

このように日本人の自己主張や意見を述べる行為というのは、日本人特有とも言えるような非常に複雑怪奇な過程を含んでいます。このような日本人が国際会議に出席してどこまで渡り合えるか大いに疑問に思われます。日本の意見を表明するだけならいいのですが、審議したり、あるいは事務局をやったりしたら、日本特有のものは一切通じなくなってしまいます。

中国人や韓国人には通じる部分がありますが、東アジアを離れたら日本人流ってのはまったく通用しないでしょうね。それほど世界の各国の代表者というのは自己主張、意見の開陳には慣れています。イラン人代表に至っては何回目の会議であっても白紙から意見を述べたりするメンバーがいたりして困りますけどね。
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by elderman | 2005-09-25 11:51 | えるだま雑記【案内画面】 | Comments(12)
2005年 09月 23日

日本人の特殊性(22):信用

日本人は信用をとても大事にする国民だと思います。根っから正直というよりも信用を失いたくないという動機から正直であるのだと思っています。それを知っているのかイラン人は代金は後でいいからと高価な絨毯を日本人観光客に売り付けます。気に入らなければ返品してくれればいいとまで言われて、日本に高価な絨毯を持って帰ったという例を多く聞きます。それでも代金の回収をし損なったという話を聞いたことがありません。返品をしたという話を聞いたことがありますが、それにしても買おうとした日本人が送料を負担して返品しているのですから正直なものです。イラン人でも日本人以外にはこの商法を適用することはないと思います。このように、日本人の国際的な信用というのは大変強いものだと言えると思います。

「武士に二言はない。」というのも信用に関わるものだし、「ユダヤ人の言葉は契約書よりも重たい」などとユダヤ人の大家さんに言われたことがあります。英語でも「keep word」という表現があります。世界的に信用というものは大事なのですが、日本人がいかに信用を重んじているということを理解するために反対の例を紹介しましょう。

中近東のこの地域の人々はまったく他人を信用しない姿勢を持っています。それがどこから発生したものかは諸説ありますが、実際問題としてそうなのです。だから結果として物事がなかなかスムースに進行しない。物事を他人に頼むときに、イランでは何人にも頼んでいいとされています。日本では誰かに物事を頼んだら、その結果を得ない限りは、他の人に頼むということはできないし、やってはいけないこととして考えられています。では同時に何人にも同じことを依頼できるということはどういう意味なのでしょうか。

これは頼まれた人間にそれを実行するかしないかという決断権が保留されているからだと思います。日本人の場合、頼まれた人が、引き受けてそれがなかなか実行できないと、実行がまるで義務のようになって来ます。約束の不履行という性格を帯びてくるのですね。もともと自由意志で引き受けたのですからそこまで義務になるのはおかしいと思うのですが、日本では現実問題としては完全に義務のような性格に変わってしまいますね。

イラン人の場合は、頼まれた方も頼んだ方もその最初の関係がいつまでも保たれ、頼まれ事を引き受けた方は引き続きそれを実行するかしないかの最終判断の権利を保有しているようです。つまり、気が向かなければやらないという訳です。ですから頼む人は何人に同じことを頼んでも問題は起きないという理屈になります。悪く言えば誰も当てにならないとも言えます。

イラン人に「例の頼んだ物はいったいいつ手に入るのか?」などと聞いてもどうせ返って来る言葉は決まっています。「インシャアッラー」(神の御心次第)ですね。頼まれたイラン人は、ちゃんと依頼どおりに行動してくれたとしても、最終的なところまでは責任は感じないものです。手配したけどそのものが実際に届くというのはさらに誰かが介在する訳で、もうそこまでは自分の責任ではないとはっきりと割り切っているようです。日本人の場合は、ちゃんと物が届くまで依頼を引き受けた人間はヒヤヒヤしたりするものですけどね。

頼まれたことを引き受けても、必ずしもそのようにするとは限らない。日本では信用問題になってしまいそうなことですが、カルチャーが違います。そもそも好意で引き受けたのだから義務が生じる訳がないという考え方も一理あるような気がします。しかし、これだと会議などをやっていろいろ決めても、会議が終わってそれぞれの職場に戻ったら気が変わって、「やっぱり止ーめた。」ということになりそうです。

イランでは警察など役人の持つ権限はかなり個人個人にあり、同じケースの扱いが担当者によって違ってもまったく意に介していません。これも信用の失墜に繋がる行為なのですが、当地ではまったく問題にされていません。そういうものだと完全に習慣として染み付いているようです。

こういうイラン人を相手に取引をしている日本の商社の方々は大変だろうと思います。歴史的にペルシャ商人というのは有名ですが、現在の組織として動く国際取引には向いているようには思えません。政治もそうですがこういう面もイラン国の衰退の一因ではないかと思います。仲間を信用しないで組織的に仕事をこなせないようでは大きな発展は望めないと思います。
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by elderman | 2005-09-23 11:42 | えるだま雑記【案内画面】 | Comments(6)
2005年 09月 21日

日本人の特殊性(21):派閥

芥川賞を受賞した19歳の錦矢りさ著の「蹴りたい背中」を読んだところです。読書後に感想文でも書いてやろうかと思っていたのですが、どうにもその気にはなれないようです。若過ぎる作家の作品のせいでしょうか。ところがちょっと角度を変えて作品のテーマをみるとこのシリーズのテーマに近いものがあります。

主人公は早熟のせいか頭が良いせいか、同級生のなかに素直に入っていけない苦しみが描かれています。日本人の特殊性とも言える強い仲間意識、連帯感、そしてそれが派閥にもなっていく。仲間になれない人は仲間外れということになり、冷たい視線を浴びる。そんな実社会にも存在するような仲間意識が高校生活の中でも演じられている。

主人公は仲間でいるための努力もくだらないと思い、先生ですら生徒の受け狙いの行動をとるというようなことまで見透かしてしまう。子供だから、高校生だから仲間を作っているというよりも、この構図は大人の社会の縮図のようにも思われます。作者がそこまで意識して書いているかどうかは分かりませんが、一人称で書かれた描写にはかなり鋭いものがありました。

これが日本人特有の仲間意識、連帯感、協調心の強要という世界からの脱却の芽生えということであれば、文部省が近年打ち出してきている「個性を伸ばす」という教育方針が生きて来ているのかも知れません。作品に感動し、同調する中学生、高校生に大きな影響を与える作品という気がします。

日本人は徒党を組み易い国民だと言えると思います。自己主張よりグループとしての発言力の強化を図り、そこで自分の意見を反映させていくという戦略が自然と発達したのかも知れないし、寄らば大樹という安心感のためという消極的な動機もあるかも知れません。ともあれグループの長はグループの代表ということで評価され、発言力を持つようになります。日本人の感性として、人物よりもその人の肩書きがモノを言いますね。その人がどういう人物なのかというよりも、何人の代表なのかというのが発言力の物差しと言えるでしょう。

中東のアラブ人やイラン人は、日本人とはまったく反対で、仲間を組織して行動するというセンス、協調心にまったく欠けています。こちらの人から日本人をみたらとても奇妙に見えるはずです。個人より組織が優先するような心の働きはまず理解されないものでしょう。

そもそも最初から妙な仲間意識、派閥意識がなければ、仲間外れも、それによるイジメも発生しないかも知れません。単なる弱いものイジメはどこの国にでもあるでしょうが、日本の場合は仲間外れとしてもっと陰湿に現れているような気がします。

そう言えば、私も小学生の頃、協調心がないと指摘されたことがあり、不満を感じたことがあります。子供ですからそれは多分一生懸命に清掃作業をやればいいという話なのかと解釈してしていました。自分の意見を言うことのどこが悪いのかという精神はいまでも変わっていませんけどね。この精神で担任の先生に協調心がないと言われるなら、今では逆に文句を言ってやりたい気分です。

そういう精神ですから、私の子供頃には仲間意識を持つということはあまりありませんでした。自分が輪の中なのか外なのか、そんなことは無頓着でした。しかし、働いてからは事情は変わりました。仕事では情報が大事だし、しかも良質な情報を必要とします。そして、効率的な業務の遂行という意味においても派閥の意味を認識するようになったのです。もちろんイジメのための派閥ではありませんが、中に入れない人たちというのは、複雑な心境でいたことでしょう。

日本では普通飲み会というとどういう人の集まりなのかを明確にする配慮をします。そうでないと誰かからどうして自分が呼ばれないのかといういちゃもんが付けられ問題が起きるからです。ところが私の意図した飲み会では敢えて派閥に名称を与えず、メンバーリストも作りませんでした。恣意的にメンバーを選んで声を掛けるという恐ろしいものです。日本的な妙な配慮はしないという意思の表れと言えるでしょうか。

私が直接メンバーに声を掛けていた訳ではないのですが、強面(?)の私のところに文句を言ってくる人は最初から最後まで一人もいませんでした。ということで私が日本で現役当時は派閥の幹事長のような役目をしていたことは否定できません。表面的には気まぐれな飲み会なんですが、部全体を巻き込む大きなグループになりました。

飲み会ですから、アホな上司の悪口や人事の話など、酒の肴にはことを欠きませんでした。欠席すると悪口を言われると冗談を言うメンバーもいました。サラリーマンの典型的な飲み会の姿でしょうか。それでも、たまには真面目に環境行政がどうあるべきかも論じたものです。
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by elderman | 2005-09-21 06:01 | えるだま雑記【案内画面】 | Comments(8)
2005年 09月 20日

日本人の特殊性(20):泣く

日本人の男性はなかなか泣かないものです。武士道の影響でしょうか、そのように教育されてきたのですね。男なら泣くんじゃない・・・泣くことがまるで卑しい行為のように教育されてしまったとも言えるでしょうか。その点、日本女性にはそういう教育はあまりなされないようで、比較的自由に涙とともに感情を表せるようです。

家内がそれほどの出来でもないTVドラマをみて、ぽろぽろ涙を流しているのを脇目で見ながら、男子たるものこの程度のことで涙してなるものかと、この監督はここでお涙頂戴の演出をしているに違いないなどと気を紛らわすことばかり考えるようになります。この対照的な感情の発露は性による差でなくて、教育あるいは躾のせいであると気がつくのには海外で生活をして外国人の感情の表れ方を観察する必要がありました。

イラン人はあまり喜怒哀楽の感情表現の抑制をしないようです。もちろん日替わりの態度は好ましいものではないので、男性としてはその日の気分やむら気は家族以外に表さないという努力はしているようです。しかし、本当に悲しいことや気がかりなことがあると、素直に表情に出すのは平気なようです。

イスラム教シーア派の妙なパレードをTVでご覧になられた方もいらっしゃると思いますが、手やチェーンで胸を叩きながら号泣して歩くという姿が見られます。聖人(エマーム)として崇められている宗教指導者の殉職を悲しんでの感情表現なのですが、1000年も前に死んでしまった人ですから、どうしてそこまで悲しめるのか我々には不思議な気がします。もっとも行進で泣いているのはその道のプロであると聞いたことがあります。ま、そんなものなのでしょう。

親族を喪っておいおい泣く男性、失恋してぽろぽろ泣く男性、日本人の感覚からはみっともないという感じがありますが、ではどうしてそのような感情表現をしていけないのかという理由を考えるとつまりは国民性というような曖昧な文化、教育、躾のせいであるということに気がつきます。

女心は秋の空などと、女性には生理的な原因があるでしょうからどこの国でも寛大に扱われます。それで、女性は政治には向かない、特に外交には向かないなどと本気で唱えている人があるようです。血の上りやすい男性が向いているという気もしませんから、この辺りは一人一人の個性に依存するというのがまとものような気がします。

感情をあまり表さない日本人というのは、外国人からみると一種不気味な雰囲気があるのかも知れません。前にも書いたように、肌の触れ合いという行為は日本人の日常生活や挨拶の習慣にないし、そこへ持ってきて感情表現をせず、いつも意味不明の微笑をしているか、もう一つの典型的日本人のパターンでいつも難しい顔をしているというのもありますが、どちらにしても親しみやすい人間というのにはほど遠い感じがします。

それでも外国に長いこと出ている日本人は表現が次第に大げさになって来ているのを認めることがあります。やはり外国人と接触していると無表情ではいい交友関係が持てないと自覚しているのでしょう。私も11年と海外での生活が長くなりましたが、少しずつの変化をしているのでしょうか、自分では気がつかないことが多いと思います。日本に帰って自分の動作や表情で友人に変な顔でもされたら注意しないといけませんね。

私はどちらからというと、外国人に合わせた大げさな態度をとるのは好みません。無理して振舞っても所詮、自分は自分。どこの国にいても自分の持てるものだけで対人関係を作っていきたいと考えています。日本人特有のものは目立たないようにするという努力はしています。

泣いてすっきりするという話を女性から聞くことがありますが、こういうのは残念ながらさっぱり分かりません。泣いたって何も状況は変わらないだろうにってのが、家内には割り切り過ぎると映るようです。ある日、家内に聞いたことがあります。「どうして死んだ人を悲しむの?」、「可哀相だから」、「可哀相って死んじゃった人にはそんなの分からないんじゃないの?」、「・・・・」
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by elderman | 2005-09-20 11:48 | えるだま雑記【案内画面】 | Comments(10)
2005年 09月 19日

日本人の特殊性(19):笑い

それぞれの国にはそれぞれの国の笑いがありますが、その笑いの対象はその国の文化水準に関係しているような気がします。文化水準が低いと笑いの内容は侮蔑、蔑視、嘲りというようなものが多数含まれているように思われます。教育や倫理観で抑制されるならば、そういう内容でも可笑しいという感覚が残りますが、日本人にはもはやそういう内容を可笑しいとは思えない感性が働いていると思います。

もう忘れてしまいましたが、英国人がアイルランド人を馬鹿にしたジョークをたくさん聞いたことがあります。また、イランではトルコ人を馬鹿にしたジョークが多くあります。日本でも40年以上前はお隣の国の人々を見下した冗談が結構あったように記憶しています。

南米、ベネズエラでは住み込みの家政婦がTVのドタバタ・コメディで大声を出して笑っていたのを懐かしく思い出します。その笑い声が私のいるところまで聞こえてくるのですから、驚きもしたし、こちらまで可笑しくなったりしたものです。

この状況は、日本の40年くらい前に似ているでしょうか。「てなもんや三度笠」、「三バカ大将」などが人気だった頃ですね。私はまだ中学生くらいだったと思いますが、「三バカ大将」を初めて見たときに本当に可笑しくて転げまわって笑ったものです。完璧なドタバタ・コメディでしたがその徹底したバカバカしさに笑わされてしまいました。ところが、これを最近の再放送で見ても少しも可笑しくなんですね・・・ 知っているせいか、もう可笑しいとは思えないのか、年をとったのか・・・

現代の日本の文化水準が高いかどうかということには少し疑問がありますが、笑いの文化は少し水準が高いかもしれないと思っています。日本のドタバタの絶頂期は、コント55号だったでしょうか。激しいアクションで当時としては新鮮に見えたものでした。でも、当時あるいはその前には「大人のマンガ」というような成熟したユーモアを提供してくれる番組もありました。青島幸男の脚本でしたが、政治家にならないでこちらの方面で活躍してくれていたらもっと楽しかったのになぁ・・・なんて思ってしまいます。

その後日本では、「ビートたけし」の毒舌が受けたり、「8時だよ全員集合」がPTAの顰蹙を買ったししていました。そして、漫才ブームかな・・・ 掛け合いの面白さを味あわせてくれました。変わらないのが落語系の笑いでしょうか、唯一江戸時代の雰囲気を残している文化のように思えます。「笑点」はロングライフの番組ですが、出演している落語家のキャラクターが万人向けに用意されていて笑いの性格を考えさせられるものです。本当にアホじゃないかと思わせるボケ役の木久蔵がもたらす素朴な笑いにはほのぼのさせられます。

駄洒落は昔からありますが、機を得たバカバカしいものには大笑いできますね。凝った駄洒落というのは受けが悪いとしたものでしょう。駄洒落は考えて作ってもしょうがないと思っています。自然に噴き出せるタイミングが命でしょうね。若い人が「おやじギャグ」と冷ややかな反応を示したりしますが、それは本当の「おやじ」がつまらないものを連発するから、その反発じゃないでしょうか。

大分、日本の笑いの回想をしてしまいましたが、現代の日本の笑いには自虐的なものが現れて来たように思われます。笑いの対象が自分自身というのはある意味高級なのかも知れません。あるいは末期症状かも知れませんけど・・・(笑) 外国では、この手の笑いは相当の言語能力が必要なので、残念ながら私の言語能力程度では感じることが出来ません。

ところで、寄席でもそうなのですが、TVで放映されない世界として下ネタがあります。これはどうしても笑いを誘い、受けがいい。お客さんが笑わなければ下ネタをやればいいというくらいな感じがあります。ただ、下ネタでは品がないし、後味が悪いしで決して高級な笑いとは言えないでしょう。
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by elderman | 2005-09-19 11:20 | えるだま雑記【案内画面】 | Comments(8)