えるだま・・・世界の国から

elderman.exblog.jp
ブログトップ

2007年 03月 04日 ( 32 )


2007年 03月 04日

天使の都(1)

10月10日、10時40分発バンコク行きタイ航空641便は静かに成田空港を飛び立った。私の名前は花井拓馬といい、京都大学の衛生工学部内にある研究所で働いている。大学教授と言っても大学の教壇にほとんど立つことはなく、集中講義以外は院生の研究指導が仕事である。

私がバンコクに出張で行くのはこれで2回目である。出張と言っても3か月に及ぶものなので滞在に近い。前回のバンコク、当時私は42歳でまだ助教授だった。この時のバンコクでの仕事もやはり3か月の滞在であった。観光旅行でインドネシアのバリ島へは行ったことがあったが、東南アジアへの出張は初めてだった。当時の私はタイという国には奇妙な踊りと衣装、そして南国のエキゾチックな雰囲気を漠然と抱いていた。

5年前のことだ。初めてバンコクのドンムアン空港に降り立った時は、その蒸し暑さと不思議な香りを真っ先に味わった。10月20日のことだった。飛行機が着いたのはもう夕方であり、空に黒い雲が現れていた。日本から持ってきた荷物と仕事で必要な機材を引き取ると、空港の出口で待ってるはずの日本人スタッフを探した。

タイ政府に日本から大型の予算で無償供与された研究機関への技術移転が私の仕事だ。その場所は飛行場よりさらに北に位置していると聞いていた。そのプロジェクトが開始されてから既に3年が経過していた。飛行場にはそのプロジェクトチームの調整員の福島さんが来ていた。福島調整員とは面識がなかったが、ちゃんと看板を持っていてくれたのでみつけるのはたやすかった。

運転手のソムチャイは車を職場の方向ではなく、反対方向のバンコクに向けてトヨタ・ランドクルーザーを運転した。この日は長期滞在用のホテルにチェック・インして終わりということらしい。この頃はまだ飛行場とバンコクを結ぶ高速道路は開通しておらず、車は一般道路を走った。私は有名なバンコクの大渋滞を初日から味わうことになった。

しかも悪いことにすごい雷雨であった。まだ夕方なのに真っ暗である。こういう雨はスコールと呼ぶべきものだろう。道路の水はけが間に合わなくなり、路上に水が溢れ出てきた。やがて車は渋滞どころでなく完全に停止してしまった。このまま水が車の床まで達するとは思えないが、ぴたりと止まったまま動けないのには困ったものだ。雷鳴がすごく喧しい。こんなに大きな雷鳴を日本では聴いたことがなかったくらいだ。

動かない車の中で私は福島さんと話をしたが、福島さんの言動が少し変っていることに気がついた。まるで女性の話方なのである。きっと彼が女性の多い家庭で育ってそうなったのかも知れないと私は考えた。やることをやっていれば本人の癖など気にすることはない。ソムチャイは冗談が好きなようでだ。まだ若いせいかも知れないが、大して上手くない英語でしゃべっている。福島調整員も私もソムチャイの大して面白くない冗談に合わせていた。

ランドクルーザーがホテルに着いた時は、飛行場を出て既に2時間近くかかっていた。福島さんによれば普段なら45分程度で行けるという話だった。ホテルはペッブリ通りのソイ15にあった。ソイというのは路地と言う意味のタイ語であった。この時私はまだタイ語のいろはも知らなかったのである。

ホテルの名前は「セントラル・ホテル」、長期滞在者用のホテルであった。このホテルを拠点に3か月に及ぶバンコク滞在が始まった。

(つづく)
[PR]

by elderman | 2007-03-04 23:50 | Comments(0)
2007年 03月 04日

天使の都(2)

私の部屋は11階のシングル・スタジオという妙な名前の部屋であった。部屋はワンルームながら十分広く、小さなキッチンも付いており、3か月の滞在では申し分がないように思えた。私はまだ本当のタイ料理を知らなかった。辛いと聞いているそのタイ料理が食べられない場合、自炊もできると思うと心強くなった。

翌日、朝食をとりに7階のレストランに降りていった。レストランはエレベータを降りて、プールへの出口に向かい、その向こうにあるのだ。一旦外気に触れると、早朝だというのに湿った生暖かい空気を体に感じた。レストランにはほとんど客はいなかった。私はまだ早い時間だからだろうと思った。ウエィターが声を掛けてきた。

「サワッディー・クラップ」
「グッド・モーニング。ドゥ・ユー・スピーク・イングリッシュ?」
「イエス、サー」
「ザッツ・グッド」

ウエィターの名前は「タン」と言った。まだ20代で細身の体つきをしたとても優しそうなタイ人だ。私は彼を「ミスター・タン」と呼ぶことにした。レストランには日本食のメニューもあったが、朝食なのでタイのお粥を食べることにした。私は食事を待っている間に気が付いたが、客がほとんどいないのにレストランのスタッフは忙しそうにしている。どうやら朝食のルームサービスが多いようだと気が付いたのだった。

私は食事を済ませて、ロビーに降りて迎えの車を待った。ロビーの中にはソファーがあり、外にも椅子が用意されていたが、私は外の庭を眺めながら迎えの車を待った。庭にはいかにも常夏の国らしい常緑樹が植えられ、2階まである天井にも届きそうに成長していて、薄暗い雰囲気になっていた。庭には小さな池があり、そこでは金魚が泳いでいた。

迎えの車が到着した。私は福島調整員と一緒にJOCO(Japan Overseas Collaboration Organization)事務所に向かい、所長に挨拶をした後、ようやく今回の仕事の職場に向かった。お昼に近い時間だと昨日の夕方の渋滞ほどではなく、バンコク市内でも割合スムースに車は進むことができた。車はドンムアン飛行場を過ぎててさらに北の方向に進んだ。

一般道路の上で高速道路の工事をしているため一般道路は日陰になり薄暗かった。飛行場を過ぎた辺りから、周囲のごみごみした感じが消え、開放感を感じた。車はさらに北に進み続けた。次第に景色が田舎の雰囲気になっていく。私はそんな辺鄙なところに職場があるのかと少し驚いた。

大きな立体交差を抜けると、道はさらに田舎道の雰囲気になった。クローンと呼ばれる水路に沿ってまたしばらく走る。バンコクから1時間半くらいかかる場所だ。幅10mくらいのクローンには、なぜかその場所に似つかわしくない中型の木造の船が数隻停泊していた。車はUターンするとさらに路地に入った。道路は舗装もされていない。すごい田舎に研究機関があるのだなぁと思わざるを得なかった。

しかし目的の入り口に到着するとそこには広大な敷地があり、いくつかの建物がみられた。科学技術省の研究機関用の敷地だと言う。その中の一つの四角い白い大きな建物、それが私の向かう研究機関であった。大きな敷地に大きな建物、この田舎に似つかわしくない建築物にみえた。

建物はまだ新しいせいか白い色も綺麗で、建物の端に塔などつければそれこそお城のようだ。私はあまり人工的な環境は好きではないが、ここは蒸し暑いが静かで研究環境には相応しい環境だと思われた。中にはどういうスタッフがいるのだろうか。

(つづく)
[PR]

by elderman | 2007-03-04 23:40 | Comments(0)
2007年 03月 04日

天使の都(3)

私はまずプロジェクト・リーダーの黒木さんとシニア・アドバイザーの堀井さんと挨拶を交わした。リーダーの部屋はタイ人秘書一人と調整員の福島さんが一緒に使っている執務室であった。多分、私の来るのを待ち受けていたのであろう、堀井さんは丁度リーダーの部屋にいたのだった。立派な建物自体の見かけとは裏腹に日本人チームの部屋は何の飾り立てもない普通の事務室であった。

私は堀井さん、いや堀井先生と呼んでもいいくらい、彼は全国的に有名な方である。彼の前では私の方がはるかに無名の研究者だと言えるだろう。堀井さんは国家公務員を退職されていて2年の任期でこのプロジェクトに参加されているのであった。

私は堀井先生とはこの時が初めての対面であった。学会などで会っていても不思議ではなかったのだが、どういう訳かすれ違いが多かったようである。もちろん論文で彼の名前はよく知っていた。穏やかな表情の下には確固たる自信のある表情がみてとれた。私は自分自身がまだ青い存在を認めないではいられなかった。そんな堀井先生であったが、口から発せられた言葉は優しかった。

「花井先生、とんだ田舎までお疲れ様。」
「はい、初めて来ましたが、いい環境ですね。」
「ここまで毎日通っているだけで立派な仕事というものです。」
「バンコクから大分時間が掛かるようですね。」
「この渋滞ですから、毎日大変です。」

リーダーの黒木さんは明朗な方だった。どんなことでも話のできそうな頼もしい人柄にみえた。この仕事の前には南米に長くいたとのことで、スペイン語は得意だが英語は少し苦手のようだった。私は彼の笑顔の裏に少し苦労が見えたような感じがした。

「花井先生。お疲れ様でした。」
「日本から6時間ですから近いものです。」
「いやぁ、そう言っていただければ・・・あはは」
「これから3か月よろしくお願いいたします。」
「どうもどうもこちらこそ。初めてのタイということならタイを楽しんでください。わはは」
「そうですね、東南アジアは初めてなので楽しみです。」

明るい性格の黒木リーダーで私はほっとした。このプロジェクトチームが仕事ばかりのワーカホリック集団ではたまったものではないというのが私の不安だったのだ。チーム員は大学や国の機関、それに地方自治体から派遣されているのであった。私のような大学の研究機関勤務では勤務時間というのはあってもないようなものなのだ。逆に言えば、家にいても通勤の途中でも研究から解放されないというのが研究者の宿命でもあるのだ。

「花井先生、これからここの所長のポーンティップさんにご紹介しましょう。」

私はリーダーについて所長室に向かった。所長室は建物の入り口に近いところにあった。所長室は細長い作りであったが、その中にはソファーがあり、それなりの風格を持っていた。私には黒木リーダーの事務室とは大違いに見えた。所長秘書に案内され中に進むと、所長は自身の執務机に座っていたが携帯電話をしている最中であった。

ポーンティップ所長は色白でやや小太りな中年の女性所長であった。その所長が愛想のいい笑顔で私たちを迎えようとしていた。

(つづく)
[PR]

by elderman | 2007-03-04 23:30 | Comments(0)
2007年 03月 04日

天使の都(4)

ポーンティップ所長の英語は極めてスムースで発音も綺麗だった。40歳くらいだろう、自信を持っているせいか、発言には余裕すら感じさせられた。私には彼女の第一印象国の研究機関の研究者であるというよりもむしろ行政官のようなあるいは外交官のようなちょっと異質な雰囲気が感じられた。私は世才に疎い、だから違う臭いを持つ人間を嗅ぎ分けることがある。

挨拶が終わった後も、私はポーンティップ所長の会話に何か異質なものを感じていた。話し方は丁重であったが、この研究機関に私が派遣されたことに不満があるように感じたのだった。この時、私にはその理由が分かるはずもなかった。

所長への挨拶を終えると、私は日本人専門家の執務室へと案内された。実を言うとこの「日本人専門家」の執務室というのが存在することがそもそも私には奇異に思えたのであった。技術移転のために日本人の専門家がこの機関に派遣されているのである。日本人専門家が揃って一緒に執務室にいるというのは少し妙なのだ。

つまり、技術移転にはカウンターパートという相手国代表の担当があり、その担当者に技術移転をするのだから専門家の執務室は同じか、またはごく接近して存在すべきものだと私は思っていたからである。ここの研究機関では日本人同士が日本の組織で働いているかのごとく一緒の執務室にいるというのだ。私は少し首を傾げた気分だった。

その日本人専門家の執務室に入ると、そこには3人の専門家がいた。他に2名の専門家がいるそうだが、研究室に出ているとのことであった。部屋にいた3人の専門家は、溝口専門家、福田専門家、岩井専門家であった。溝口専門家は大阪府から、福田専門家と岩井専門家は民間コンサルタント会社からだった。

どの専門家も暖かく私を迎えてくれた。これから3か月を一緒に過ごす同僚であり仲間である。いろいろな人間がいるものだが、できれば楽しく過ごしたいものだ。私は自分の机に案内された。するとしばらくして運転手のソムチャイが飛行場から積み込んだままの私の携行機材を車から降ろして運びこみ始めたのだった。

私はすこし落ち着いた頃を見計らって溝口専門家に話しかけた。

「この執務室ですけど、日本人専門家が一緒にいるというのは少し変ではありませんか?」
「そうなんですが、ここの組織の課の区分が測定なら測定というように作業形態によるもので専門分野による区分ではないのです。」
「ははぁ、そういう理由があったのですか。」

日本の部局の縦割りと横割りとの関係のものがこの組織では完全に違っていたのである。「日本政府が無償供与した案件ならば、日本のやりやすいように組織だって作ればいいものを・・・ ここは何かがおかしい。」というのが私の第一印象であった。

実はこのプロジェクト、私が聞いているだけでもいろいろな噂があった。少し前まで数多くある日本人グループの視察を断っていたという話しさえ聞こえてきていたのだった。つまり、上手く行っていないプロジェクトというレッテルを貼られたプロジェクトだったのだ。

普通はプロジェクトの専門分野の人がリーダーをやるものだが、このプロジェクトは違っていた。黒木リーダーの人柄のいいのは初対面でも分かったが、彼はこの研究機関とはまったく専門外の人なのだ。

(つづく)
[PR]

by elderman | 2007-03-04 23:20 | Comments(0)
2007年 03月 04日

天使の都(5)

所長との挨拶、日本人専門家の執務室をみて私は少し胸騒ぎを覚えた。幸いチームリーダーの黒木さんが明朗な性格を持つ人格者であることで救いを感じたのが、やはりこの組織、噂どおりの根深い問題を抱えているような感じが否めないのであった。溝口専門家が私の率直な意見に素直に反応してくれたことは幸いであった。

しかし、溝口専門家の話を聞くと、彼はこの組織に派遣されてからほぼ2年間ほとんど干されていたと言うのだ。一体全体この組織はどうなっているのだろうか、私には分からないことばかりであった。堀井シニア・アドバイザーの言っていた「ここまで毎日通っているだけで立派な仕事というものです。」というのは物理的な苦労だけを指しているだけではないのかも知れない。

私はこれから過ごす3か月について少し暗澹たる気持ちを抱いたが、すべてが取り越し苦労ならなんの意味もない。私は白紙の気分で臨むということに気分を切り替えた。そうしている間にランチタイムになった。この白い巨大な建物の中にキャンティーンがあると言う。なのにどういう訳か溝口専門家は弁当を持参していた。

私は福田専門家と岩井専門家と一緒にキャンティーンに向かった。白い巨大な建物は口の字形をしているのでその中には芝の張られた庭が整備されている。1階にあるキャンティーンに入るとそこには日本人チームの3人の秘書たちがいた。この時まで私には気持ちに余裕がなかったのだろう、その秘書たちの存在にまったく気がつかなかったのだ。私が盛んに情報収集していたので彼女たちは遠慮していたのかも知れない。

3人の秘書たちの一人は私の目には日本人のように見えた。3人とも私をみて微笑んでいる。これがタイ女性か、私にとって初めての接近遭遇であった。その中の日本人ようなタイ女性が私のところに近づいてきて何を食べたいのか訊いてきた。一緒に来た二人の日本人専門家は秘書たちが私の面倒をみようとしているので安心したのか、自分たちの料理を得るべくカウンターのところに行ってしまった。

3人の秘書は「ミー」、「ブア」、「ポイ」とそれぞれのニックネームを紹介をした。私はニックネームというので学校時代につけられたものかと思ったがそうではなかった。生まれたときに親が名づけてくれるのだそうだ。ポイが一番年長のようであった。ブアは自分の名前が「睡蓮」の意味であると紹介してくれた。「ミー」の意味は分からなかった。ミーが日本人のような人だと思った女性である。

ミーが一番英語ができるようである。ミーは私を料理カウンターに連れて行き、何がいいか訊いてきた。私はよく分からないので目の前の人が麺類を手に入れていたので、それを指して私もそれがいいと伝えた。それはタイのラーメンのようで、10バーツ(約30円)であった。待っているとすぐにそれは出来てきて、私はテーブルにその麺を持って行って3人の秘書たちと一緒に昼食を食べた。

このキャンティーン、熱帯の国にありながら天井にガラスを多用している。明るくていいのだが、冷房がないのでかなり暑い。食事の間も私自身が彼女たちの好奇心の対象になっていることはひしひしと感じた。タイに来た日本人であるから最初は彼女たちの好奇心の餌食になるのはしょうがないと思うしかない。3人の秘書たちはよく笑う。私には何を話しているのかさっぱり分からない。

そのうち彼女たちは、私にタイ語を一生懸命教えようとし始めた。私はタイ語の教則本を買ってはみたが、カタカナで書いてある意味不明の言語には拒絶反応が強かった。またタイの文字は独特であり、覚えてもタイでしか通じないというところが私の学習意欲を損ねていたのだった。

彼女たちは同音の単語を発音しながらタイ語の特徴を説明しようとした。しり上がりの音、尻下がりの音、高い音、上がって下がる音、下がって上がる音、これらの区別を教えようとしているのだった。こういうのは私だけでなく日本人にはそういう感性がほとんどないと思う。同じ音で5通りの抑揚と5つの意味・・・ これには面食らった。

(つづく)
[PR]

by elderman | 2007-03-04 23:10 | Comments(0)
2007年 03月 04日

天使の都(6)

溝口専門家はタイ語を懸命に習得していた。すでに2年近く滞在しているのでかなり話せるようだった。ポイとブアは私たちの部屋の秘書だったので、溝口専門家はタイ語彼女たちとの会話を楽しんでいることがある。冗談を言っているらしいが、私にはさっぱり分からない。

ポイは小柄で地味な感じの女性だが、3人の中では一番年長でしっかりした性格のようだ。ブアは唇が厚くちょっと黒人のような感じの容貌でファニーな雰囲気があった。一番若いのがミーだが、彼女はリーダーの執務室で働いていた。

午後になると午前中姿のなかった二人の日本人専門家が部屋に戻ってきた。一人は平井専門家で東京都から派遣されている中年の男性である。彼は一見なまずのような容貌をしていて正体不明という感じがしたが、話をしてみると案外ヒョウキンな性格をしていた。後で分かったことだが、彼が日本を離れてタイで単身赴任の生活をしてみて一番タイに魅了されているのであった。

もう一人の専門家はやはり地方自治体からの派遣で久保専門家である。背が高く真っ黒に日焼けしていた。タイの強い日差しの下でテニスをやっているせいだという。彼も平井専門家と同じように単身赴任でタイに来て既に1年以上が経っていた。久保専門家はよく冗談を言うが、何を考えているかよく分からない人物見えた。

私が一番話しやすい人物として親しくなったのは溝口専門家であった。彼とは専門が違うので仕事の中身の話はしないが、このプロジェクトの歴史とかいろいろ重要な情報を与えてくれたのであった。この時点で彼の任期は残すところ2か月であった。私の目から見ると彼はこの組織の中で少し拗ねているように見受けられた。

それが2年近くも続いているというのだから困ったものである。私には「郷に入ったら郷に従え」という言葉が頭に浮かんだ。一方的な感情を持ち続けるなら問題は解決しないだろう。しかし、彼は言った。

「タイ人というのは非常に外交的センスがある。私が帰国する頃にはきっと上手くまとめようとするさ。」

その時、私にはちょっと信じられない話だったが、後日談になるが、彼の言ったことは正しかったのである。彼がどうして浮いたか、それは彼の話を聞くに連れ分かってきた。そしてそれはこの研究機関の大きな問題だったのである。

信じられない話だが、このプロジェクト、日本チームが二分してしまうという醜い争いを展開したのであった。それが原因で今のチームリーダーが専門分野と関係のないJOCOの職員が当てられたのだ。問題を起こしたリーダーが専門分野の人だったということからこういう人事になったという。

専門家のカウンターパートの学位論文を専門家が書いてあげる。そしてそれでタイ人の研究員が学位を取得するということが行われていたのであった。これは信じられないことである。本人の能力でなくて学位を取得するなんて常識外の出来事であった。専門家の技術移転が学位取得という形で目に見えた実績になるということはあるのだろうが、ひどい話である。それに憤慨した溝口専門家が干されたという理由が少し分かるような気がした。

この組織の所長ポーンティップも実は日本人専門家の強力な指導で博士号を取得したと言うことだった。いくら外交に長けた国民であろうが、日本の国際協力という援助を私利私欲に利用した醜い話だと思った。

(つづく)
[PR]

by elderman | 2007-03-04 23:00 | Comments(0)
2007年 03月 04日

天使の都(7)

溝口専門家の性格に少し頑固な部分があることは否めない。彼の話を聞いて何回も感じたことだ。彼の持参する弁当だってその表れなのだ。彼がキャンティーンに弁当を持って行ったら、そこでタイ人の研究員にからかわれたらしい。それ以来意地になって弁当を事務室で食べるようになったという。

私は彼の苦い経験を反面教師として生かすしかないと思った。しかし、問題は彼のケースだけでなく、実は私の今回の派遣についてもあったのだった。思えば所長への最初の挨拶のときのことだ。所長の私に対する期待はまったく別なところにあったようなのだ。私はプログラマーでもないしシステム・エンジニアでもない。私が今回の仕事を請けるときに、私がやらないこととして明確にしたことが所長のお気に召さなかったようである。どうやら役に立たない専門家が来たと思ったようだ。

溝口専門家の話から分かったことだが、日本政府が機材供与した物件のお守りが日本の専門家の役割であり、さらにタイ人のカウンターパートに対して学位論文を提供するのもその役割であるとなるとこれは認識違いもはなはだしいのである。その点では私のできることは限りなくゼロであることは間違いない。

カルチャーショックとはいうが、これほど善悪の物差しが違っている国に来たのかと私は暗澹たる気持ちになった。同時に溝口専門家の残りの任期でなんとか有意義な時間の過ごし方はないものだろうかと彼を励まし、一緒に活路を考えたものだった。そしてこれは私の仕事についても言えることだった。

私は食い違った需要と供給の狭間で、私にできることをやると決断した。3つのテーマで集中講義を行うことにしたのだ。所長の思惑とはまったく違った企画になったが、悪い提案でないのだから反対意見がでるはずもない。私はこうして当初のボタンの掛け違いの境遇から逃れることができた。

人間気持ちに余裕ができるといろいろ興味が湧いてくるものである。私が最初に興味を持ったのはタイ語であった。秘書たちは一生懸命教えてくれるが、残念ながらこちらの記憶力が追従しないのとアクセントの判別能力の乏しさが一層困難を助長した。

例えば15は「シップ・ハー」と言うが、これをカタカナで棒読みしたのでは絶対に通じないのだ。「ハー」の音程は高く、これを忠実にやらない限り、タイ人には通じない。全部の音に5通りはないまでも、それに近いアクセントの変化がある。中国語も同じ分類の言語に入るが、こういう訓練を受けていない日本人にはなかなか難しいものである。日本国内でこれを適用したら、関東の人間は関西の言葉をまったく理解できないことになってしまうのだ。日本語ではアクセントはまったく無視して理解しないとお互いに通じなくなってしまう。

私はホテルでの退屈な時間を紛らわすために、ラジカセを買ってきた。ホテルの丁度向かいには大きなビルがあり、そこではPCやら家電やらを売っていたのだ。そしてそのソースにタイの歌を求めた。タイ語の勉強になるとも考えたためである。タイ人はヒット曲に敏感なようである。私にはどれも同じに聴こえたタイの流行歌であるが、それでも新しいもの古いものがあるようだった。

私が店の勧めで買ったCDを秘書たちに話すと、よく知っていた。そこで私が一発奮起したのがタイ語の曲を覚えることであった。これに協力してくれたのがミーであった。実際歌って聴かせてくれるのだった。私はカタカナで歌詞カードを作った。そして毎晩CDを掛けてタイの演歌のようなメランコリーな恋愛ソングを覚えようとしたのだった。

(つづく)
[PR]

by elderman | 2007-03-04 22:50 | Comments(0)
2007年 03月 04日

天使の都(8)

私がタイの曲を覚えようと昼食後ベランダに出ると、いつものように3人の秘書たちがおしゃべりを楽しんでいた。ミーは私のタイソングの出来栄えに興味があるようだ。私はメモを見ながら一生懸命に歌った。不思議なことにタイ語は歌うと通じるのだった。抑揚がメロディに乗せてあるのだろう。

「チャイ、チャイ。ケン・チャン・ルーイ」(そう、そう、上手)
「チャイマイ・クラップ?」(そう?)
「チンチン・カー」(本当ですよ。)
「コップクン・クラップ」(ありがとう)

私は少しずつタイ語を覚えてきた。ミーたち3人の秘書に感謝しないといけない。悪戦苦闘の末、やっと一曲が歌えるようになった。ミーは根気強くできの悪い生徒に教えてくれた。他の二人の秘書は歌うのは恥ずかしいのかも知れない。歌となるとミーに任せるのであった。

私の朝夕の通勤は、3人の秘書たちと一緒だった。帰りは最初にポイが降りる。そしてブアが降りて、ミーはバンコクまで私と一緒だった。ミーはいつも運転手の隣に座っていた。運転手のソムチャイはミーに好意を持っているようだ。まるで王女のようにミーと接していた。ミーはミーでソムチャイを使用人のように使っているのだった。

私が後で知ったことだが、タイ人の男性は女性に触れてはいけない、しかし女性は男性に触れることは自由なのだ。だからミーはソムチャイに平気で触る。ソムチャイは決して彼女に触ることはない。そしてソムチャイはミーに言われることなら何でも従順なのだ。私は売春の国として有名なタイという国、そしてタイの国民を誤解していたと思った。よく観察するとタイは、実は40年くらい前日本のようだったのだ。

ミーは身長162cmくらい、細身でありながら、ボリュームのある体形をしている。そして彼女は髪の毛の細い茶髪のロングヘアーをしていた。私は彼女が二日続けて同じ色の服を着たのを見たことがない。若いからか原色系統のカラフルなものを着ている。しかし、その素材は明らかに化繊の安物に見えた。

ある日私はあることを思いついた。ミーに普段のお礼として花をプレゼントしたいと思ったのだ。単刀直入に花のプレゼントはしにくいし、照れくさい。そこで一計を案じたのだった。

「私のホテルの部屋に花を買いたいので付き合ってほしい、私はタイ語ができないから」

と彼女に頼むのだ。そしてそのついでに彼女に小さな花をプレゼントする。これが作戦であった。

実際ミーは車を花屋の前に止めて、私の依頼をちゃんとこなしてくれた。私は計画どおり自分の花を選んだ後、彼女に小さな花をプレゼントした。これなら私のような小心者にでもできる。我ながら名案だと思った。彼女は喜んで私のプレゼントを持って帰った。

私は平日は仕事があるのでいいのだが、一人でのホテル暮らし、週末の過ごし方は悩みの種であった。ホテルのプールで泳いでも直ぐに飽きてしまう。近くの伊勢丹に行っても別に買うものもない。そう思いながら執務室の外にあるベランダで煙草を吸っていると、いつの間に現れたのかミーから声が掛かった。

「ハナイさん、週末にバンコクを案内しましょうか?」
「え?本当?いいの週末に?」
「はい」
「それはいいなぁ、嬉しいなぁ」

(つづく)
[PR]

by elderman | 2007-03-04 22:40 | Comments(0)
2007年 03月 04日

天使の都(9)

私にはミーの申し出はまったく意外であった。まさか、先日贈った花のせいじゃないだろうし。直前になって忙しくなったからって断ってくるってこともあるなと思い、がっかりするといけないのであまり期待しないで待つことにした。

いよいよ土曜日である。私にはミーが自分の週末を犠牲にしてまで私に付き合ってくれるなんてちょっと信じられなかった。ミーは1時にホテルに来ると言っていた。既に1時である。断りの電話が来るといけないので1時までは部屋にいたのだ。溝口専門家が言っていたけど、タイ人は自分の都合で簡単にキャンセルするし、時間もいい加減だという話が思い出された。

約束の1時になったので、私はホテルのロビーに降りた。ロビーのソファーで日本の新聞を読むことにしたのだ。1時半になってもミーは現れなかった。「なんだタイ人ってのはそんなものか」と少しがっかりしながら、そんなもんだろうと自分に言い聞かせたが、それでももう少し待とうと決め新聞の文字を目で追った。

人の気配を感じるとホテルの入り口のガラスの扉のところに白いワンピースのミーが見えた。その時の彼女はそよ風に乗って飛んできた天使のように見えた。仕事の時には着たことのない上品な柔らかい素材のものだった。

「ハナイさん。遅れちゃってごめんさい」
「いえいえ、来れなくなったのかと思った」
「渋滞がひどくてね、ごめんなさい」
「とんでもない。謝るなんて。来てくれてありがとう」

私はミーの案内に任せてタクシーに乗った。退屈だった週末が急にエキサイティングな週末に変ったことが嬉しくてたまらなかった。こんなに可愛い子の案内でバンコク観光ができるなんて夢のようだと思った。

ミー最初に案内したのは「ワット・プラケオ」であった。週末ということもありかなり混雑した道路を通り、金色の輝く装飾の建物見える大きな門構えのところでタクシーを降りた。私にとって初めてのバンコク観光であり、その最初は一番有名な仏教寺院であった。大きな門を抜けると砂利道があった。そこでは担当官が服装チェックをしていた。宗教施設だからそれなりの服装をしてないと不敬に当たるのだ。

ミーの服装は仏教寺院の観光を想定していたからなのだろう、いつもミニスカートの彼女には珍しい姿だったのだ。まるで別人のようなミーに見えた。彼女の英語は実は少し怪しい、私の英語だってそんなに威張れたものじゃないから、丁度よかったのかも知れない。少し話せれば意思の疎通には事欠かないものだ。

私にとってワット・プラケオは初めてのタイの仏教寺院であった。庭に入ると奇妙な像が建っている。建物も金色が主体でなんともけばけばしい。その中にあって可憐に咲いた薄紫色の蓮の花が上品に見えた。金色の奇妙な像は映画の「ネバーエンディング・ストーリー」にでも出てきそうな造形だった。

エメラルド色のご本尊がある本殿は、そのご本尊様も神聖なのだろうが、壁に描かれた仏教の物語が面白い。本殿には観光客だけでなく本当に拝みに来ているタイ人も多かった。私は板の間に正座して足が痛くなるまで壁画とご本尊様を見ていた。外に出て改めて金色の装飾をみると、これもまた一つの美なのだろうと思わざるを得なかった。

タイの仏教建築や仏像などには美しいものも多いが、神聖、高尚というよりも親しみを感じさせるものが多いと思った。

(つづく)
[PR]

by elderman | 2007-03-04 22:30 | Comments(0)
2007年 03月 04日

天使の都(10)

私の仕事が順調に進み始め、余裕ができてきた頃、ミーがバンコクでシーフードの美味しい店を紹介すると言って来た。どうやら私のホテルから近いところにあるらしいのだ。いつものようにソムチャイの車が私たちをホテルまで送ってくれると、ミーもそこで降りた。ミーはここで友人を待つという。

私たちがしばらく待つとミーの友人のディーが現れた。ディーはJOCO事務所の受付で働いていると紹介した。私は最初の挨拶で訪問したことはあったが、彼女のことは覚えていなかった。ディーはタイ人には珍しいムスリム(イスラム教徒)であった。タイ全土で5%くらいはいるという。ミーは色白だがディーは少し褐色の入った肌の色をしている。顔つきは女優の池上季美子に似ていて美人である。私は美人の二人が友人同士というのは珍しい組み合わせだと思った。

レストランまで歩くことにした。それほど近いのである。私は少し歩くと汗をかいてしまうが、彼女たちにはそんな心配はないようである。埃っぽい歩道を歩き、歩道橋で反対側に渡ると歩道にはたくさんの犬がだらしなく横たわっている。どの犬の人間に怯えたりしないででれーっと横たわっているのだ。歩行者の方が犬に注意して歩いている。私にはいかにも仏教国だなと微笑ましく思えた。

シーフードレストランは中国系タイ人の経営のようだ。看板に中国語でも店の名前が書かれていた。私には海鮮という部分しか読めないので中国語だと思ったのだ。料理の材料は店の前に並べられていた。種類の違ったカニやエビ、魚が氷の中に陳列してあった。私はカニが好きである。カレー味のカニ料理をこのとき初めて味わった。

ビールはシンハという銘柄を注文したが、これはドイツのビール製法を早くから取り入れたタイの国産ビールであった。このビールは日本のものに比べて苦味が強くアルコール度数が高い感じがした。胃腸が弱い私には少しきついビールに感じられたのだった。

ミーは先日行ったワット・プラケオでの写真を持っていた。私はキャノンの一眼レフを持参してたので観光地の写真を撮ったのだった。ミーは写真に撮られるのが大好きな子だった。彼女の写っている何枚かを焼き増しして渡したばかりであった。それを友人のディーに見せているのだ。ミーはフォトジェニックな女性だ。しかも撮影するたびに表情が違う。大人びたり、可愛い表情だったり、私は彼女に不思議な魅力があると思った。

食事を終えた私たちは近くにあるバイヨクタワーで珈琲を飲むことにした。バイヨクタワーは40階建ての塔のよう構造物だ。地震のない国だからこそこういう建築物ができるのだろう。最上階まで上がるとそこが喫茶室になっていた。私たちは窓際の席についたが、最上階が少し大きめに作られているので、直ぐ足元には地上が見えていた。私は高所恐怖症ではないが、それでも体がむずむずするような感覚を味わった。

ミーとディーは楽しそうにおしゃべりをしている。私にはさっぱり分からないが、それでもミーは私に時々話しかけてくれた。ディーはJOCOで働いているというのにもかかわらず、あまり英語が得意でないようだった。バイヨクタワーで珈琲を飲んで過ごしてる間にすっかり暗くなって来た。高層階から見るバンコクの夜景は見事な美しさであった。私が夜景を眺めているとミーが言った。

「今、このバイヨクタワーの2個目が建設中なんです」
「そう、もっと高いのができるの?」
「80階以上になるって聞いています」
「へぇ、それならもっと綺麗な夜景が楽しめるだろうね」

(つづく)
[PR]

by elderman | 2007-03-04 22:20 | Comments(0)